晴れ=天気が「良い」、雨は「悪い」なのはなぜ?

晴れを「良い」とする私たちの不思議

朝起きてカーテンを開けたとき、窓の外に抜けるような青空が広がっていると、今日は良い天気だなあ、と思ってしまいますよね。反対に、どんよりとした雲が垂れ込め、雨がポツポツと降り出していれば、「あいにくの天気ですね」と少し残念そうに挨拶を交わすのが日常の風景です。

テレビの天気予報を見ても、キャスターの方は、明日はお出かけ日和の快晴です、と笑顔で伝えてくれますし、週末に雨が降る予報なら、残念ながらお天気は下り坂です、と申し訳なさそうに言ったりします。

こうしたやり取りがあまりにも当たり前すぎて、これまで深く考えたこともありませんでしたが、ふとした瞬間に疑問が湧いてきました。
なぜ私たちは、晴れを良いもの、雨を悪いもの、というふうに、無意識のうちに決めつけてしまっているのでしょうか。

空から水が降ってくるという自然現象に対して、善悪のようなレッテルを貼ってしまうのは、考えてみれば少し不思議な気がするのです。


なぜ晴れが喜ばれるのかを整理してみる

一般的に晴れが歓迎される理由は、おそらくいくつもあります。まず何より、私たちの日常生活の利便性が大きいでしょう。
洗濯物がよく乾くとか、傘を持ち歩かなくて済むとか、自転車や徒歩での移動が楽だとか、そうした物理的な身軽さが晴れの日にはあります。

また、太陽の光を浴びると、私たちの体の中ではセロトニンという物質が作られ、気分が前向きになるという話もよく耳にします。
光が明るいだけで、なんとなく活動的な気持ちになれるのは、人間という生き物の本能に近い部分なのかもしれません。

さらに、現代の経済活動も晴れを前提に設計されている部分が多いように感じます。観光地やイベント、あるいはスポーツの試合など、外で行われる行事の多くは、晴れていることでその価値を最大限に発揮します。

こうした、利便性、生理的な快感、そして社会の仕組み。これらが組み合わさって、晴れは良いものだ、という共通認識が形作られているように見えます。


雨を嫌うのは誰の都合か

けれど、一歩引いて考えてみると、この、晴れ=善、という図式は、あくまで人間の一方的な視点に過ぎないのではないか?という思いも頭をよぎります。

例えば、農作物を育てている方々にとって、雨は命の源です。何日も日照りが続けば、それは恵みの雨と呼ばれ、どんな晴天よりも待ち望まれる存在になります。
また、ダムの貯水率が下がっているとき、雨を悪い天気と呼ぶ人はまずいないでしょう。

それに、私たちの心も、常に晴天のように明るいことだけを求めているわけではありません。静かに読書をしたいときや、自分の内面と向き合いたいとき、窓の外で静かに降る雨の音は、むしろ心地よい集中力をもたらしてくれることがあります。

雨の日には、世界が少しだけ狭くなり、家の中の暖かさであったり、しっとりと濡れた街路樹の美しさに意識が向くようになります。


社会の構造が作り出した価値観

私たちが晴れを良しとするのは、効率や生産性を重視する現代社会の構造に、私たちの感覚が最適化されすぎているからではないか、という仮説が浮かんできます。

予定通りに物事を進めたい、外に出て何かを消費したい、という欲求が強いほど、雨は邪魔な存在になります。しかし、そうした効率の呪縛から少し離れてみると、雨は私たちに休息を促し、世界の解像度を変えてくれる、豊かな時間をもたらしているのかもしれません。


結局のところ、天気はただそこにあるだけ

結局のところ、天気に良いも悪いもなく、ただ存在しているだけというのが今の自分の感覚です。その時々によって都合の良しあしはありますが、天気自体に善悪はありません。

空はただ、その時の気圧や湿度の条件に従って、太陽を見せたり、水を落としたりしているだけです。そこに意味を付け加えているのは、私たち人間の側ですね。

仕事が忙しくて移動が多い日には、雨を恨めしく思うこともあります。一方で、ゆっくり過ごしたい休日には、雨音が癒しに聞こえることもあります。どちらの感覚も嘘ではないしどちらが正しいというわけでもありません。

ただ、今日は雨だと知ったときに、「あ~…なんか嫌だな」と即座に反応してしまう自分に気づいたら、少し深呼吸をして、今日はどんな雨の楽しみ方があるだろう、と考えてみるだけで、もう少しだけ風通しが良くなるのかもしれません。

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