正義の正義マン ~私は正しいから正しいんだ、暴力をする奴はぶん殴る~

正義の正義マン ~私は正しいから正しいんだ、暴力をする奴はぶん殴る~

SNSのタイムラインを眺めていると、時折背筋が凍るような光景に出くわします。特定の誰かが何か不適切なことをした際、それを見つけた人々が怒涛の勢いで批判を浴びせ、謝罪だけでは許さず、その人の生活そのものを破壊しようとする動きです。
彼らは自分たちの行動を正義と呼び、悪いことをしたのだから叩かれて当然だという論理で動いているように見えます。こうした人々はネット上で正義マンなどと呼ばれることもありますが、なぜこれほどまでに激しいエネルギーが生まれるのでしょうか。

私たちはいつから、これほどまでに他人の間違いに対して敏感になり、そして容赦がなくなったのでしょうか。私は専門家ではありませんが、一人の生活者として、この正義の暴走とも言える現象について少し立ち止まって考えてみたいと思います。


世の中でよく聞く「正義マン」の姿

一般的に、こうした過激な正義感を持つ人々は、道徳心が非常に強く、社会をより良くしたいという純粋な願いを持っていると言われることがあります。ルールを守らない人や、倫理的に許されない行動をとる人を放置しておくと、社会の秩序が乱れてしまう。だからこそ、誰かが声を上げて正さなければならない。そんな使命感に燃えているという見方です。

また、現代社会は将来への不安や格差が広がっており、多くの人が日々の生活でストレスを抱えています。自分の力ではどうにもできない大きな不満がある中で、明確な悪を見つけ出し、それを叩くことで心の平穏を保っているのではないかという分析もよく耳にします。
自分は正しい側に立っているという感覚を得ることで、日頃の鬱積を解消しているというわけです。確かに、悪を倒すヒーローのような振る舞いは、一時の爽快感を与えてくれるのかもしれません。


その「正しさ」はどこから来たものか

しかし、少し冷静になって考えてみると、疑問が湧いてきます。相手を徹底的に叩きのめすその行為自体は、彼らが嫌っているはずの暴力と何が違うのでしょうか。私は正しいから、相手に対して何をしてもいい。この論理は、実は非常に危ういバランスの上に成り立っている気がしてなりません。

もし本当に社会を良くしたいのであれば、相手を再起不能にするまで追い詰める必要はないはずです。むしろ、何が問題だったのかを対話を通じて明らかにしたり、二度と同じ過ちが起きないような仕組みを作ったりすることの方が重要なはずです。
それなのに、なぜ対話ではなく攻撃という形を選んでしまうのか。そこに、単なる正義感とは別の何かが隠れているような気がしてならないのです。


私たちの脳と集団が仕掛ける罠

ここで、私が考えるヒントになった視点がいくつかあります。一つは、人間の脳の仕組みに関することです。アメリカの社会心理学者であるジョナサン・ハイトさんが書いた、社会はなぜ左と右にわかれるのかという本の中で、人間は直感的に正しいか間違いかを判断し、その後に理屈を後付けする生き物であるという趣旨の話が出てきます。

つまり、私たちはまず相手を嫌いだと感じたり、許せないと直感したりして、嫌悪感情を正当化するために正義という言葉を後から持ち出している可能性があるということです。悪いやつを罰するとき、私たちの脳内では快楽物質であるドーパミンが出るとも言われています。正義を振りかざして誰かを叩くことは、実は脳にとって非常に気持ちの良い報酬として組み込まれているのかもしれないのです。

もう一つは、集団の中にいるという安心感です。群集心理としても知られるこの現象は、あるコミュニティ全体が一人の人間を悪だと決めつけたとき、個人の思考は停止し、集団としての暴力が加速していくものです。
そこでは、集団の意見に同調することこそが正義であり、異を唱える者は裏切り者とみなされます。自分たちのグループが正しいと信じ込むことで、相手を人間としてではなく、排除対象として見てしまう怖さがあるのです。


構造的な理由を想像してみる

今のインターネット環境も、この現象を助長している構造的な理由の一つでしょう。画面の向こう側にいるのは生身の人間ですが、文字や画像だけではその痛みを感じ取りにくくなります。相手の表情が見えないからこそ、言葉のナイフを研ぎ澄ませてしまう。そして、そのナイフが何千、何万という数で一斉に向けられたとき、受け取る側が受けるダメージは計り知れません。

また、私たちは常に誰かに評価される世界に生きています。自分の意見がどれだけ賛同を得られるか、どれだけ正しいと言ってもらえるか。その承認欲求が、より過激で分かりやすい勧善懲悪の物語を求めてしまうのかもしれません。複雑な問題を複雑なまま受け入れるのは疲れますが、あいつは悪だ、自分は正義だと決めつけてしまうのは、思考のコストを大幅に下げてくれる非常に楽な道なのです。


今のところ自分はこう考えている

いろいろと思いを巡らせてみましたが、結局のところ、正義マンという存在は私たち一人ひとりの中に潜んでいる影のようなものではないかと私は考えています。自分は絶対にそんなことはしないと思っていても、ある日突然、誰かの言動に激しい怒りを感じ、それを正したいという衝動に駆られる瞬間が来るかもしれません。

正しさは、使い方を誤れば凶器になります。私は正しいから正しいんだという言葉は、思考を止める呪文のようにも聞こえます。
もし誰かに対して強い怒りを感じたとき、それが純粋な社会への貢献なのか、それとも自分のストレス解消や承認欲求のための暴力なのか、一呼吸置いて自分自身に問いかける余裕を持ちたいものです。

正解が一つではないこの世界で、正義という言葉に甘えすぎず、自分の抱いている感情の正体を見つめ続けることが、誰かを殴りつける前にできることではないかと、今のところはそんな風に考えています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました