
なぜ私たちは汗と涙の物語が好きなのか
テレビのスポーツ中継を見ていると、解説者の方がよく、最後は気持ちの強い方が勝ちますね、といった言葉を口にします。 仕事場でも、技術や効率よりも先に、やる気や粘り強さが評価される場面に出くわすことが少なくありません。 こうした、いわゆる根性論というものは、私たちの社会に深く根を張っているように感じます。
ふとした瞬間に、なぜなんだろう?と不思議に思うことがあります。 科学的なトレーニング理論や効率的なビジネス手法がこれだけ普及している現代において、なぜ未だに精神的な強さが全ての解決策のように語られるのでしょうか。 もしかすると私たちは、目に見えない心というものに、魔法のような力を期待しすぎているのかもしれません。
日常のささいな場面、例えばダイエットが続かないときや、仕事でミスをしたときに、自分の根性が足りないからだと自分を責めてしまう。 そんな経験を繰り返すうちに、そもそもこの「根性」という考え方はどこからやってきたのか、その正体を知りたくなってきました。
世間でよく耳にする根性論のルーツ
一般的に、根性論のルーツとして語られるのは、大きく分けて二つの時代が多いように思います。
一つは、戦時中の精神主義です。 物資が圧倒的に不足していた時代に、それを補うために精神の力で乗り越えようとした、あの痛ましい歴史です。 竹槍で飛行機に立ち向かうといった極端なエピソードとともに、日本人の精神構造の歪みとして指摘されることがよくあります。
もう一つは、戦後の高度経済成長期です。 焼け野原から立ち上がった日本が、欧米に追いつけ追い越せと遮二無二働いた時代です。 特に1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーボールチーム、東洋の魔女の過酷な練習風景は、語り草になっています。
「巨人の星」のようなスポ根漫画が流行したのもこの時期で、努力と根性で逆境を跳ね返す姿が、復興を目指す日本人の理想像と重なったと言われています。
こうして見ると、根性論は日本の苦しい時期を支えてきた、いわば必要悪のような存在として位置づけられていることがわかります。
本当にそれは古来からの伝統なのか?
でも、ここで少し立ち止まって考えてみたいのです。 根性論は、本当に日本人が昔から持っていた気質なのでしょうか。
よく、日本人は武士道の精神を受け継いでいるから根性がある、といった話を聞きます。 しかし、江戸時代の文献などを紐解いてみると、意外にも当時の人々はもっと楽天的で、現代人が考えるようなストイックな根性とはかなり距離があるようにも見えます。
実は、私たちが伝統だと思い込んでいるものの多くは、明治以降の近代化の過程で作られたのではないか。 そんな視点を与えてくれたのが、新渡戸稲造の武士道という本でした。 この本はもともと、西洋の人々に日本の道徳を説明するために英語で書かれたものです。 つまり、外からの視点を意識して、日本人の美徳を再構成した側面があると言えます。
私たちが今、伝統的な精神だと思っている根性は、案外、近代国家として国民を一丸にするために、後付けで強調されたものなのかもしれません。 そう考えると、根性論は古い伝統というよりは、比較的新しい仕組みの一部のように思えてきます。
構造から見える根性の正体
なぜこれほどまでに根性が重宝されてきたのか、その理由を構造的に考えてみると、いくつかの可能性が浮かび上がってきます。
まず考えられるのは、資源の少なさを埋めるための代替品としての役割です。 日本は資源が乏しく、技術力も発展途上だった時期が長くありました。 物がない、お金がない、設備がない。 そんな状況で成果を出そうとすれば、残された変数は人間の時間と精神力しかなかったというものです。 つまり、根性は戦略的な欠乏を埋めるための最も安上がりなエネルギー源だったのではないでしょうか。
次に、集団の結束を高めるためのツールという側面です。 みんなで苦しい練習に耐える、みんなで深夜まで残業する。 その苦しみを共有することで、論理的な説明を抜きにした強い連帯感が生まれます。 逆に言えば、根性を見せない人間を排除する形をとることで、集団の「純度」を高める機能も持っていたのかもしれません。
戦後の日本人がいかにして自分たちのアイデンティティを再構築していったのか。 その過程で、かつての軍国主義を否定しながらも、懸命に働くという形で精神的なエネルギーを経済成長に転用していった姿が見えてきます。 根性は、形を変えながら生き残ってきた、生きるための切実な知恵だったのかもしれません。
今の自分にとっての根性との距離感
色々と考えてきましたが、結局のところ、自分の中に湧き上がるエネルギーそれ自体を根性論として、完全に悪者にして切り捨てるというのも、少し違う気がしています。 何かに夢中になって取り組むとき、あと一歩だけ踏ん張ってみようと思う気持ち自体は尊いものです。
私自身、どうしても筆が進まないときに、あと一行だけ書いてから寝ようと自分を奮い立たせることがありますが、それも言ってみれば小さな根性の発揮と言えるかもしれません。
問題なのは、その根性が自分の中から湧き出るものではなく、外側から強制されたり、思考停止の言い訳に使われたりする場合が非常に多いことではないでしょうか。 仕組みの不備や、リーダーの判断ミスを隠すために、現場の根性で解決しようとする。 それは、本来の精神的な強さとは正反対の、きわめて不誠実な態度のように感じます。
今のところ、私は根性というものを、使いどころの難しい劇薬だと考えています。 ここぞという時に自分を助けてくれる力ではあるけれど、常に使い続けると自分も周囲も焼き尽くしてしまい、暴力との親和性も高いです。 だからこそ、根性に頼らなくても回る仕組みを必死に考えつつ、それでも足りないときに試せる最後の一滴として、しまっておくくらいが丁度いい。
かつて、猛烈に働いて自分を削ることが美徳だった時代から、今は自分を大切にすることが語られる時代へと移り変わっています。 根性の起源を知ることは、私たちがどんな魔法を自分にかけてきたのかを知ることでもあります。 解けない魔法をかけ続けるのではなく、時々は鏡を見て、今の自分に本当に必要な力は何なのか、ゆっくり考えてみるのも悪くないと思っています。


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