
用事の帰りにふらっと立ち寄るゲームセンター、あの独特の喧騒と、耳を突き刺すような電子音に包まれると、不思議と落ち着くことがあります。クレーンゲームの景品をじっと見つめる人や、リズムゲームで神業のような指さばきを見せる若者、あるいはメダルゲームに黙々と興じる年配の方々。
そうした光景を眺めているときに、頭をよぎった疑問があります。世の中にはギャンブル依存症という言葉があって、それはとても深刻な社会問題として扱われていますよね。でも、同じように何時間も、あるいは毎日ゲームセンターに通い詰めている人のことを、ゲーセン依存症とはあまり呼びません。せいぜい、ゲーム好きとか、熱心な常連さんといった言葉で表現されている気がします。
お金を払って、ある種の興奮や快感を得るという点では、パチンコもゲームセンターも似たようなものに思えます。それなのに、どうして片方は病気として治療の対象となり、もう片方は熱心な趣味として受け入れられているのでしょうか。この境界線は一体どこにあるのか、少し考えてみたいと思います。
お金が戻ってくるかどうかの決定的な違い
まず一般的に言われているのは、やはり換金性の有無という点でしょう。ギャンブルの定義は人それぞれかもしれませんが、多くの人がイメージするのは、投じたお金が何倍にもなって返ってくるかもしれないという期待感です。パチンコや競馬には、負けた分を取り返したいという心理が強く働きます。この、失ったものを取り戻そうとする泥沼のような感覚が、生活を破綻させるほどの依存を生む大きな要因だと言われています。
一方で、ゲームセンターのゲームには最初から基本的にお金が戻ってこない前提があります。クレーンゲームでぬいぐるみを手にすることはあっても、それを売って生計を立てる人はごく稀でしょう。百円玉を投入した時点で、そのお金は対価として消費されたもの、つまり、遊びという体験を買ったものとして完結しています。
「取り返さなきゃ」という焦りが生まれないことが、ゲームセンターを健全な娯楽の枠に留めている最大の理由なのかもしれません。世間一般では、お金が増える可能性という毒が混じっているかどうかが、依存症と趣味を分けるリトマス試験紙のように機能しているようです。
投資という名前がつくと?
でも、ここでさらなる疑問が湧いてきます。もし、お金が戻ってくることや、増えることを期待するのが依存の種なのだとしたら、投資はどうなるのでしょうか。最近は新NISAなどの影響もあって、資産形成のために投資を始める人が増えていますよね。
もちろん、多くの人は将来のために長期目線で堅実に運用しているはずですし、NISA自体そのような設計になっています。しかし、中には四六時中スマホで株価や為替のチャートをチェックし、一喜一憂して、夜も眠れないほど投機的なトレードに没頭してしまう人もいます。状態としてはギャンブルにのめり込んでいるのとあまり変わらないようにも見えます。
それなのに、それを投資依存症と呼んで問題視する声は、ギャンブルほど大きくありません。むしろ、経済に詳しい人とか、意識が高い人といったポジティブなラベルが貼られることもあります。
結局のところ、社会的に役に立ちそうとか、将来のためになるといった印象があるかどうかで、私たちは依存かそうでないかを色分けしているだけなのかもしれません。
遊びの構造に潜む共通点に目を向けてみる
でも、本当にそれだけの理由で説明がつくのでしょうか。少し視点を変えてみると、ゲームセンターの仕組みも、実はかなり依存を誘発するように作られていることに気づきます。
例えば、最近のメダルゲームは非常に豪華で、派手な演出とともに大量のメダルが払い出される瞬間は、まさにギャンブルに近い高揚感を与えてくれます。また、格闘ゲームやリズムゲームなども、練習すればするほど上手くなるという達成感があり、もっと強くなりたい、もっと高いスコアを出したいという欲求を刺激し続けます。
脳にとっては、それが競馬の当たり馬券であっても、ゲームのハイスコアであっても、チャートであっても、放出される快感物質に本質的な違いはないのではないか、と考えられます。だとしたら、私たちがゲーセン依存症と呼ばないのは、単に社会的な実害、つまり借金などの目に見える破綻が起きにくいからという、表面的な理由に過ぎないのかもしれません。
誰からどう見られているかという社会的なフィルター
もう一つの可能性として、その遊びが持つ社会的なイメージの差もあるのではないでしょうか。ギャンブルにはどうしても単価が高いこともあり、年齢制限が設けられ、厳しい法規制が敷かれています。不健全、大人の不道徳な遊び、といった暗い影がつきまといます。そのため、少しでものめり込むと、それは危ないことだというアラートが周囲から鳴り響きます。
対して、ゲームセンターはもともとワンコインで遊べる子供や若者の遊び場として発展してきました。最近では高齢者のコミュニティスペースとしても注目されています。ショッピングセンターに併設された場所で、ファミリー層が楽しんでいる光景もよく目にします。
誰かと一緒に楽しむ、あるいはただ時間を潰す場所というポジティブなフィルターがかかっているため、そこで多少の時間や金銭を費やしても、依存という物騒な言葉で語られることは少ないのかもしれません。
同じように画面に向かって熱中していても、それがカジノの台なら依存症の予備軍に見え、ゲームセンターの筐体なら趣味に没頭する人に見えるという点も無視できません。
消失したお金と残った体験のあいだで
構造的な理由をもう一歩踏み込んで考えてみると、ギャンブルは、結果としての利益を追求する行為であるのに対し、ゲームセンターは、過程としての体験を追求する行為であるという明瞭な違いが浮かび上がってきます。
この視点から見ると、ゲームセンターの遊びは、純粋な遊びとしての性質をより強く持っているのかもしれません。たとえお金を使いすぎたとしても、手元には技術や思い出といった、目に見えない楽しかった記憶が残ります。
その実感が強くあるからこそ、本人も周囲も、それを破滅的な依存とは捉えにくいのではないでしょうか。もちろん、生活費を削ってまでクレーンゲームに注ぎ込むようなケースがあれば、それは問題かもしれませんが。
今のところの私なりの結論
色々と考えてきましたが、結局のところ、依存症という言葉(もとい、病気という言葉全般)は、その人が社会生活を円滑に送れているかどうかを測るための、便宜上の境界線である気がしています。
お金が返ってこないから安全なのではなく、お金が返ってこないという前提があるからこそ、私たちは引き際を見極めることができ、それを遊びとしてコントロールできています。逆に言えば、スマホゲームのガチャのように、ゲームセンター的な遊びの中に金銭的な射幸心が入り込んできている現代では、この両者の境界線はどんどん曖昧になっていくような気もします。
ギャンブルかゲームかという分類よりも、自分がそれに支配されているのか、それとも自分が遊びを乗りこなしているのか。手応えを自分自身で問い直すことが、これからの時代には大切なのかもしれません。
私も次にその類の娯楽に興じるときは、ただコインを投じるだけでなく、今の自分はこの時間をちゃんと楽しめているかな、と自分の心に聞きながら遊んでみようと思います。


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