「以前の自分」に恥ずかしさを感じる理由とは?数年前の自分の写真を見たときに何が起きているのか

コラム

かつての自分の叫び

部屋の大掃除をしているときや、実家の引っ越しの手伝いをしているとき、ふと見覚えのない古いノートや、スマートフォンの奥深くに眠っていた数年前の写真フォルダを見つけてしまうことがあります。何気なくページをめくったり、画面をスクロールしたりしたその瞬間、まるで冷や水を浴びせられたかのような、あるいは心臓をぎゅっと掴まれたかのような、強烈な居心地の悪さに襲われた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

そこには、今となっては絶対に選ばないような少し尖ったデザインの服をドヤ顔で着こなしている自分の姿や、SNSの裏アカウントに書き残された、世界のすべてを悟ったかのような気恥ずかしいポエム、あるいは仕事への熱いパッションを青臭く語るかつての日記が残されています。思い出すだけでも耳の裏が熱くなるようなあの奇妙な感情は、一体どこからやってくるのでしょうか。

私たちは過去の自分を嫌っているわけでも、犯罪に手を染めていたわけでもありません。ただ真面目に、その時々の日常を一生懸命に生きていただけのはずです。それなのに、どうして数年前の自分の姿は、これほどまでに今の私たちを悶絶させる破壊力を持っているのでしょうか。

成長した証拠という、よくある慰めの言葉

このような過去の自分に対する恥ずかしさについて、世間一般では、それだけあなたが成長した証拠ですよ、という風に優しく慰められることがほとんどです。過去の自分の未熟さに気づけるということは、今の自分がそれだけ大人の階段を上り、賢くなったからだという解釈です。ビジネス書や自己啓発の世界でも、過去を恥じるのは変化の証であり、喜ばしいことだといった前向きなメッセージが定番となっています。

確かに、当時の自分よりも今の自分の方が、知識も経験も増えているのは事実でしょう。客観的に見て、視野が広がったからこそ、過去の狭い視野で大騒ぎしていた自分が滑稽に見えるという側面はありそうです。

しかし、この成長論だけで片付けるには、あの恥ずかしさの感情があまりにも生々しく、かつ拒絶反応に近い激しさを持っていることに疑問が残ります。本当にただの成長の喜びや気づきであるなら、もっと穏やかに、あんな頃もあったねと微笑ましく振り返ることができてもいいはずです。それなのに、私たちの脳はなぜ、過去の自分をまるで他人の大失敗であるかのように激しく拒絶し、記憶から消し去りたいと願ってしまうのでしょうか。そこには、人間の自己認識に関する、もう少し複雑な仕組みが隠されているのかもしれません。

記憶の連続性と脳が仕掛けるトリック

ここで、人間が自分自身をどのように認識しているのか、心理学や脳科学の分野で議論されているいくつかの興味深い事実や実験に目を向けてみましょう。

心理学の研究において、人間は、未来の自分や過去の自分を想像するとき、それを現在の自分とは全く別の、ある種の「他人」として処理する傾向があることが分かっています。脳の活動を調べる実験によると、数年前の自分について考えているときの脳の反応は、親しい友人や、全く見知らぬ赤の他人について考えているときの反応と非常によく似ているというデータがあります。つまり、私たちの頭は、地続きのはずの過去の自分を、なかば他人のように認識しているのです。

さらに、人間の記憶は驚くほど都合よく書き換えられる性質を持っています。私たちは、今の自分の価値観や都合に合わせて、過去の記憶を無意識のうちに美化したり、修正したりしながら生きています。そのため、古い日記や写真という、一切の言い訳を許さない客観的な事実を突きつけられたとき、脳が勝手に作り上げていた、「私は昔からまともで賢い人間だった」という都合の良いセルフイメージが木っ端微塵に破壊されてしまいます。

また、感情的な記憶の風化スピードにも違いがあります。過去の嬉しかったことや誇らしかった記憶は時間の経過とともに薄れやすいのに対し、恥ずかしさや決まずさといったネガティブな感情の記憶は、脳の生存本能と結びついているため、何年経っても色褪せずに鮮明に蘇りやすいという特徴も指摘されています。

過去の自分に悶絶してしまう構造的な理由

脳が過去の自分を他人扱いし、記憶のギャップに驚くという事実を踏まえると、私たちが古い日記や写真を見て恥ずかしくなるのには、いくつかの構造的な背景が考えられます。

ひとつは、現在所属しているコミュニティや、現代の空気感とのミスマッチです。人間は常に、今生きている社会や人間関係のルールに最適化しようとしています。数年前の自分が正しいと信じていたファッションや言葉遣いは、今の時代のトレンドや、今の自分の人間関係から見ればルール違反のように感じられてしまいます。社会的な生き物である私たちは、周囲から浮いてしまうことを本能的に恐れるため、今の基準から外れている過去の自分に対して、おいおい大丈夫かと焦燥感を抱き、それが恥ずかしさというシグナルになって表れるわけです。

もうひとつは、当事者意識の喪失と客観視の罠です。日記を書いているその瞬間は、悩みの渦中にいて必死ですから、主観の塊です。しかし、数年後にそれを読み返すときは、完全に観客席からの視点になっています。映画を観ていて、主人公がベタな大恋愛のセリフを叫んでいるのを観ると、なんだかむず痒くなるのと同じ現象が、自分自身の過去の記録に対しても起きてしまいます。当時は命がけだった物語を、今は冷めた目で観てしまうからこそ、その熱量の差に耐え切れなくなるのです。

さらに、自分のコントロールの及ばない不変の事実に対する恐怖、という側面もありそうです。未来の自分であれば、これからの努力次第でいくらでも変えることができますが、過去の自分はすでに確定してしまったデータです。どんなにタイムマシンで戻って消去したいと願っても、その青臭い言葉が自分の手で書かれたという事実は変わりません。その、変えられない自分の痕跡に対する無力感が、あの悶絶するようなエネルギーに変換されているのかもしれません。

恥ずかしさは、今を懸命に生きている証

こうして色々な要因を並べてみると、過去の自分に恥ずかしさを感じるのは、私たちが未熟だったからという理由だけでなく、人間の脳が現在の自分を守り、社会に適応していくための極めて正常な防衛反応のあらわれであると言えそうです。

むしろ、過去の自分を振り返って一ミリも恥ずかしいと思わない状態というのは、自分の価値観が完全にアップデートを止め、数年前の古いルールのままで世界を見続けているということの裏返しでもあります。部屋の片隅で古いノートを抱えてのたうち回っているその時間は、あなたが今の環境にしっかりと馴染み、新しい視点を手に入れた証拠にほかなりません。

明日からもきっと、私たちは何かしらの選択をし、日記を書き、写真を残していくでしょう。そしてまた数年後、今の自分の姿を見て、なんて浅はかだったんだと頭を抱えることになるはずです。たまには過去の自分に心の中で突っ込みを入れながら、まあ、あの時はあれで一生懸命だったんだから仕方ないかと、やり過ごすくらいがちょうど良さそうです。

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