なぜ人は白黒思考が好きなのか?0か100かで割り切れないグレーな現実

コラム

極端なふたつの色

最近、SNSのタイムラインやお昼のワイドショーを眺めていると、なんだか世の中がとてもせっかちになっているような気がしてなりません。ある出来事や誰かの発言に対して、それは完全に正しい、あるいは絶対に許せないというふうに、物事が一瞬でふたつの極端な引き出しに仕分けられていく様子をよく目にします。

そんな様子をスマートフォンの画面越しに見ながら、私はふと、自分の心のなかにも同じようなせっかちさが潜んでいることに気づかされます。たとえば、新しく始めた趣味の勉強が一日三日と続かなかっただけで、自分には全く才能がないからもうやめようと投げ出してしまったり、職場で一度ちょっとした意見のすれ違いがあった同僚に対して、あの人とは根本的に価値観が合わないのだと思い込んで心のシャッターを閉めてしまったり。

本当は、人間の性格も日々の出来事も、もっと複雑でグラデーションに満ちているはずです。三日坊主であっても四日目にまた始めればいいだけですし、その同僚だって別の仕事ではとても頼りになる一面を持っているかもしれません。それなのに、私たちの頭はなぜか、白か黒か、0か100かという極端なデジタルな世界に逃げ込みたがります。この、あいまいなグレーゾーンを嫌って極端に割り切りたがる人間の不思議な習性は、一体どこから湧き上がってくるのでしょうか。今回は、そんな私たちの頭のなかの白黒思考について、のんびりと考えてみたいと思います。

心の弱さとデジタル社会のせいというお話

この問題について、世間の心理学のコラムやネットの自己啓発の記事などでは、白黒思考は完璧主義の裏返しであり、生きづらさの原因になるから直しましょう、というふうに書かれていることが多いです。心が未熟だから曖昧さに耐えられないのだとか、認知の歪みの一種だから柔軟な思考を身につけましょうといった、個人の心の持ちようやトレーニングの課題として片付けられがちです。

あるいは、現代のインターネットやSNSの仕組みが、私たちを極端に走らせているという意見もよく耳にします。いいねの数やリツイートの数を稼ぐためには、中途半端な意見よりも、分かりやすくて過激な主張のほうが有利だから、社会全体がどんどん白黒はっきりつける方向に煽られているのだ、というストーリーです。

確かに、どちらの言い分もなるほどと思わされる部分がたくさんあります。画面をスクロールするたびに、極端な言葉が飛び交う現代のネット環境に私たちが影響されているのは間違いありませんし、白黒つけずに保留にしておくのは、それなりに心のエネルギーがいることも実感として分かります。

しかしスマートフォンが生まれるずっと昔から、人類は宗教や戦争、さまざまな思想の対立のなかで、敵か味方かという白黒のドラマを繰り返してきた歴史があるはずです。私たちが極端な割り切りを好む背景には、もっと人間の根源的な脳の仕組みや、生き物としてのサバイバルの歴史が関係しているような気がします。

脳の燃費の都合と予測のシステム

ここで、人間が物事を認識するときの仕組みや、脳の働きに関するいくつかの具体的な調査や研究のデータに目を向けてみると、私たちが白黒思考に陥りやすいのも無理はないと思えるような、面白い事実が見えてきます。

そもそも、私たちの脳は、体重のわずか数パーセントほどの重さしかないにもかかわらず、体全体のエネルギーの約20パーセントも消費する、非常に大食いな臓器であることが知られています。そのため、脳は生き物として生き残るために、できるだけサボる、つまり省エネをしようとする強力な本能を持っています。

ある認知科学的なデータによると、人間が複雑な現実をそのまま複雑なものとして受け止め、グレーな状態のまま考え続けるときには、脳のなかで高度な理性を司る領域がフル回転し、膨大なブドウ糖とエネルギーを消費してしまうそうです。一方で、これは良いもの、これは悪いもの、というふうにパターン化して一瞬でラベルを貼ってしまえば、脳はほとんどエネルギーを使わずに処理を終えることができます。つまり、白黒思考というのは、脳が過労死しないために編み出した、究極の省エネモードのあらわれである可能性が高いのです。

また、進化心理学的な視点のデータを見てみると、大昔の厳しい大自然のなかで生きていた私たちの先祖にとって、グレーな判断は命取りだったという指摘もあります。草むらがガサガサと揺れたとき、あれは風のせいだろうか?それとも猛獣だろうか?とあいまいなまま立ち止まって考えている人間は、あっという間に肉食獣に食べられてしまいます。たとえ勘違いであっても、危険だ、逃げろ、というふうにゼロか百かで即座に判断して動く人間のほうが、生存確率が高かったわけです。私たちの頭のなかには、そのサバイバルのための超高速アラーム装置が、いまだに色濃く残っているらしいのです。

分かりやすさ

脳の燃費の都合や歴史の事実を踏まえた上で、なぜ私たちはこれほどまでに白黒の極端な世界に惹かれてしまうのか、いくつかの構造的な理由を考えてみます。

ひとつは、現代社会が抱える情報の海と、それに伴う脳の疲労感です。一昔前に比べて、私たちは一日のうちに処理しなければならない情報の量が桁違いに増えています。仕事のメール、ニュースの通知、SNSの人間関係など、常に何かを判断し続けなければならない環境に置かれています。人間は、選択や判断を繰り返すと、意思決定のスタミナが切れてしまう性質があります。夕方や夜になって疲れ果てた頭にとっては、現実の複雑なグレーゾーンに向き合う余裕など残っておらず、つい、あの人は敵、この政策はダメ、というふうに、最も手軽で分かりやすい白黒の答えに飛びついて、安心したくなってしまうのかもしれません。

もうひとつは、人間関係における所属の欲求と孤独の解消という側面です。何が正解か分からないあいまいな問題に対して、うーん、どちらの言い分も一理あるよね、と言い続けている人は、どちらの陣営からも仲間とみなされず、孤立してしまうことがあります。しかし、私は絶対にこちらの味方です、と白黒はっきり表明すると、同じ旗を掲げた仲間たちから熱烈に歓迎され、強い一体感や安心感を得ることができます。私たちは、正しい答えを探しているというよりは、どこかのコミュニティに所属して孤独を埋めたいがために、あえて極端なポジションを選び取っているという構造的な背景もあるのかもしれません。

さらに、人間が「物語」を求める性質も関係していそうです。映画や小説でも、正義のヒーローと悪の組織がはっきりと分かれている勧善懲悪のストーリーのほうが、見ていてスカッとしますし、理解しやすいものです。現実の人間は、誰もが優しさと狡さを併せ持った複雑な生き物ですが、それをそのまま受け止めるのは大変なので、つい他人のキャラクターを、良い人、悪い人、というふうに物語の登場人物のように単純化して解釈してしまうのかもしれません。

ほどほどのあいまいさ

こうして色々な要因を並べて眺めてみると、人間が白黒思考を好む理由というのは、私たちが反省すべき知的な怠慢というわけではなく、限られたエネルギーで複雑な世界を生き抜くために脳が身につけた本能の結果なのかもしれないという気がしてきます。

極端に考えるのは絶対に悪いことだから、明日からすべてをグレーに捉えよう、と自分に厳しいルールを課す必要は全くありません。それこそ白黒思考です。疲れているときやピンチのときには、一時的に白黒つけて身を守ることも、生きていくためには必要な知恵だからです。

「自分」の壁 (新潮新書)
「自分探し」なんてムダなこと。「本当の自分」を探すよりも、「本物の自信」を育てたほうがいい。 脳、人生、医療、死、情報、仕事など、あらゆるテーマについて、頭の中にある「壁」を超えたときに、新たな思考の次元が見えてくる。 「自分とは地図の中の...

コメント

タイトルとURLをコピーしました