
極論から見えてくる社会の絶妙なバランスについて
ニュースで目を覆いたくなるような事件が流れてくると、「こんなにひどいことをするのなら、いっそのことどんな罪でも一番重い刑にしてしまえばいいのではないか。そうすれば誰も怖くて犯罪なんてしなくなるはずだ」という意見が必ずみられます。
そんな極端な考えは現実的ではないと頭では分かっていても、なぜそうなっていないのかを説明しようとすると、意外と難しいことに気づきます。私たちはなんとなく、罪の重さに合わせて刑罰が変わるのが当たり前だと思っていますが、もしそのルールを撤廃して、すべての違反を一律に極刑というルールに書き換えたら、私たちの社会はどうなってしまうのでしょうか。
少し物騒な想像かもしれませんが、この極論を入り口にして、普段は意識しない社会の仕組みについて、一人の生活者としてじっくり考えてみたいと思います。
厳しければ厳しいほど良いという直感
まず、なぜ私たちはすべてを一番重い刑にという発想に惹かれるのでしょうか。その根底にあるのは、圧倒的な抑止力への期待だと思います。
例えば、ゴミのポイ捨てをしたら即座に人生が終わるほどの罰が待っているとしたら、おそらく街からゴミは一掃されるでしょう。万引きも、信号無視も、ネットでの誹謗中傷も、すべてが命がけの行為になるとすれば、理性的な人間なら誰もしなくなるはずです。
さらに、刑務所を維持するための税金も節約できるかもしれませんし、裁判も有罪か無罪かを決めるだけなので非常にスピーディーに進むような気がしてきます。悪いことをした人がいなくなることで、真面目に生きている人だけが報われる完璧なクリーン社会。そんな効率的なシステムとしての魅力を、どこかで感じてしまう状況自体は理解できます。
刑罰のメニューは細かく分かれている
しかし、実際の法律の世界では、罪の重さに応じて罰の内容が細かく、まるでお品書きのように決められています。なぜわざわざ、悪いことをした人に対して手加減をするような真似をしているのでしょうか。これは決して犯罪者を甘やかしているわけではなく、実はもっとドライで、社会を円滑に回すためのシステム上の合理性があるような気がしてきました。今回は、刑罰の背後にある理論的な仕組みについて、一人の生活者として少し真面目に考えてみたいと思います。
まず、刑罰には大きく分けて二つの役割があると言われています。一つは、やってしまったことに対して相応の報いを与えるという考え方です。悪いことをしたのだからそれに見合う痛みを引き受けなさい、という直感的に理解しやすい正義の形です。
もう一つは、周りの人への見せしめにして、次に続く犯罪を思いとどまらせるという役割です。これを専門的な言葉では一般予防などと呼ぶそうですが、要するに、あんなにひどい目に遭うなら自分はやめておこうと思わせる効果のことです。
もしすべての犯罪を一律に極刑にするという極論を採用すると、この後者の効果が最大化されるように見えます。しかし、法律の歴史を紐解くと、実はこの考え方には重大な欠陥があることが分かってきました。それは、罰が重すぎると、かえって社会が不安定になるという矛盾した結果を招くという点です。
罪と罰のバランスが崩れたときに起きること
ここで重要になるのが、罪刑均衡という考え方です。これは、罪の大きさと罰の重さは釣り合っていなければならないという原則です。なぜこのバランスが大事なのかを考えると、そこには非常に合理的な理由が見えてきます。
もし、コンビニでのお菓子の万引きと、人を傷つけるような重大な事件が、どちらも同じ最高刑だったとしたらどうなるでしょうか。犯罪を犯そうとする人にとって、そこにはもはや、軽い罪にとどめておこうというブレーキが一切働かなくなります。
例えば、うっかり他人の物を壊してしまった人がいたとします。その時点で自分の運命が絶望的だと確定してしまったら、その人は次に何をするでしょうか…
あるいは万引きが見つかりそうになったとき、どうせ捕まれば同じ罰なのだから、目撃者を「排除」してでも逃げ切ろうとするインセンティブが生まれてしまいます。つまり、すべての罪を重くしすぎることは、結果としてより凶悪な犯罪を誘発してしまうという、皮肉な逆転現象を引き起こすのです。法律が罰に階段を設けているのは、犯罪者にまだ引き返せる余地を残しておくための、社会全体の防衛策と言えるのかもしれません。
刑罰の目的をどこに置くべきか
また、現代の法律の考え方では、罰を与えることそのものが目的ではなく、その人がもう一度社会の一員としてやり直せるようにする、という視点も含まれています。これを教育刑というそうです。
もちろん、被害に遭った方の心情を考えれば、そんな悠長なことは言っていられないという気持ちも痛いほど分かります。しかし、すべての犯罪者を社会から永久に排除することは、コストの面でも、社会の構造としても現実的ではありません。
統計学が支配する「感情なき正義」のゆくえ
予測を推し進めると、人間の行動そのものが変質していく予想が立ちます。すべてが最大級の罰に繋がる世界では、人々は正しさよりもエラーを避けることに必死になります。
誰かに親切にしようとして、それが何らかの規律に触れるリスクがあるなら、何もしないことを選ぶ。道で倒れている人を助ける際、万が一にも手続きを間違えて罪に問われる可能性があるなら、見ぬふりをするのが正解になる。そんな、統計学的にミスを最小化するだけの計算高い社会に向かっていきます。
そこでは、慈悲や寛容といった曖昧な感情は、システムを乱すノイズとして処理されてしまうかもしれません。
私たちは不完全な余白を愛せるか
結局のところ、犯罪をすべて極端な刑罰にするという予測は、人間を人間としてではなく、単なる数値や部品として扱う社会への入り口のように思えます。
私たちが今の不完全な、時に甘いとも批判される法制度を維持しているのは、それが単なる妥協だからではありません。人間が間違いを犯す生き物であることを認め、その上で立ち直るための余白を残しておくことが、結果として社会全体の安定に繋がると知っているからではないでしょうか。
法という名の精巧なバランサーは、怒りや恐怖という強い感情を、理性というフィルターで濾過するために存在しています。そのフィルターを捨てて極端な「正義」に走ることは、私たちが手に入れた文明という名の安全装置を自ら外してしまうことと同じなのかもしれません。


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