黙っている自由、知らずにいる権利

なぜ、いつも何かを言わなきゃいけないんだろう

最近、ふとした瞬間に息苦しさを感じることがあります。それは物理的なマスクのせいだけではなくて、なんとなく世の中全体に漂っている、何かを表明しなければならないという空気感のせいかもしれません。

SNSを開けば、誰かが何かのニュースに対して鋭い意見を投げかけています。それに対して別の誰かが賛成したり反対したりして、タイムラインは常に言葉で埋め尽くされています。
そんな様子を眺めていると、何も言わずにただ黙っている自分は、もしかして不誠実なんじゃないか。あるいは、世の中で起きている大事なことに無関心すぎる、冷たい人間なんじゃないか。そんな不安が、心の端っこをチリチリと焼くことはありませんか。

黙っていることは、今の時代ではまるで存在していないことと同じように扱われてしまう。あるいは、沈黙している=相手の意見を全肯定している、もしくは全否定している、という極端なレッテルを貼られてしまうこともあるようです。

なぜ私たちは、常に自分の立ち位置を明確にし、知るべきことをすべて把握し、それを言葉にし続けなければならないのでしょうか。ふと、そんな疑問が湧いてきました。

正しくあるために、知り、語るという”義務”

世間一般では、情報をたくさん持っていることや、自分の意見をしっかり持っていることは、とても素晴らしいことだとされています。民主主義の社会において、一人ひとりが賢い市民として振る舞うためには、情報の透明性は不可欠ですし、沈黙は時として悪に加担することになると教わってきました。

確かに、不当な扱いに声を上げることは尊いことです。知らないことで誰かを傷つけてしまうこともあるでしょう。だからこそ、私たちは必死にスマホをスクロールし、最新の情報を追いかけ、自分なりの正解を探し求めます。

知ることは力であり、語ることは自由の象徴である。この考え方は、現代を生きる私たちの背中を強く押し続けています。無知は恥ずべきことであり、沈黙は怠慢である。そういった価値観が、私たちの暮らしの根底にはしっかりと根を張っているように見えます。

「知りすぎ」への処方箋はあるか

でも、ここで一歩立ち止まって考えてみたいのです。本当に、すべてを知り、すべてに反応することが、私たちを幸せにしているのでしょうか。

例えば、朝から晩まで流れてくる凄惨なニュースや、見ず知らずの誰かの激しい怒り。それらをすべて自分の中に受け止めていると、心がいつの間にかボロボロに擦り切れてしまうことがあります。共感力という素晴らしい能力が、情報の濁流に飲み込まれて、自分を壊す毒になってしまうような感覚です。

知らないでいれば穏やかでいられたかもしれないのに、知ってしまったがために夜も眠れなくなる。そんなとき、知る権利があるのと同じように、知らずにいる権利だってあってもいいのではないか、と思ってしまうのです。

これは決して、現実から目を背けて無責任に生きるということではありません。ただ、自分の心のキャパシティを守るために、情報の蛇口を閉める自由があってもいいのではないか、ということです。注目を浴びることや効率を求める経済から少し距離を置き、自分の注意力を自分自身に取り戻す選択肢があっても、それはそれで尊重されるべきではないでしょうか。

沈黙という名のプライベートな部屋

同じように、黙っている自由についても考えてみたいと思います。
自分の心の中にある、まだ言葉にならないモヤモヤしたもの。それをすぐに、はい、あなたの意見はどっち?と白黒つけさせられるのは、なんだかとても暴力的なことのように感じます。

言葉にして外に出した瞬間、その感情は固定されてしまい、もう形を変えることができなくなります。でも、本当はもっと曖昧で、揺れ動いていて、自分でもよくわかっていない状態のままで持っておきたい大切な何かが、誰にでもあるはずです。

誰にも言いたくないこと。言う必要がないこと。それを自分だけの秘密の部屋にしまっておく自由。それが守られて初めて、私たちは一人の独立した人間として息ができるのではないでしょうか。

ちょうどいい無知

もちろん、社会の一員として、知らなければならないことや、声を上げるべき場面は確かにあるでしょう。完全に心を閉ざしてしまえば、それは孤立になってしまいます。

でも、右か左か、賛成か反対か、という二極化された世界から少し離れて、どちらでもない場所に留まる自由も、私たちは持っているはずです。

すべての情報を把握できなくても、自分を責めなくていいでしょう。 すべてのことに意見を持てなくても、それはあなたが空っぽだということを意味しません。 そして、誰にも邪魔されない沈黙を持つことは、自分を守るための大切な権利でもあるわけです。

情報という荒波の中で、あえて耳を塞ぎ、口を閉ざす瞬間を持つことは、情報の海に溺れないための、自分だけの小さい浮き輪のようなものかもしれません。

今日はスマホを置いて、誰の意見も聞かず、自分の心の声すらも言葉にせず、ただぼんやりと窓の外を眺めるというのもアリです。無防備で何も生産しない時間こそ、現代に一番必要な贅沢なのかもしれません。

みなさんも、もし少し疲れてしまったら、知らずにいることや、黙っていることを自分に許してあげてはどうでしょうか。それはそれで、意外と勇気のいる、素敵な選択かもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました