
あの懐かしいプラスチッキーな質感
近所のコンビニのレジ横や、おしゃれな雑貨屋さんの片隅で、ふと目に留まるものがあります。それは、平成の時代に人々が当たり前のように手にしていた、あの緑色のパッケージ。富士フイルムの写ルンですに代表されるレンズ付きフィルム、いわゆるインスタントカメラです。
正直なところ、最初にこの再流行を耳にした時は、単なる一時的なレトロブームだろうと思っていました。だっておかしいじゃないですか。
今は誰もがポケットの中に、最新鋭のレンズが何枚も重なった高性能なスマートフォンを入れている時代です。何千枚でも撮り直しができて、その場で加工もできて、すぐにSNSにアップできます。そんな魔法のような道具があるのに、わざわざ27枚しか撮れず、現像するまで中身も見られない、しかも結構なお金がかかるプラスチックの箱を若者が買い求めるのはなぜでしょうか。
休日のお出かけスポットに行くと、確かに若い子たちがあの小さなファインダーを覗き込んでいる姿を見るんですよね。その姿を見ているうちに、これは単なる懐古趣味ではない、もっと別の理由があるんじゃないかという気がしてきたのです。専門家ではない一生活者の視点で、この不思議な現象について少し深掘りして考えてみたいと思います。
「エモい」という魔法の言葉
世の中でよく耳にするのは、やはりエモいからという理由です。フィルム独特のザラついた質感や、どこか淡くて切ない色合いが、デジタル写真の完璧すぎる解像度よりも心に響く、という説明です。
確かに、Instagramのフィルター機能を見ても、わざと写真を古っぽく見せる加工は定番中の定番です。でも、もしそれだけが目的なら、スマホのアプリで十分なはずです。わざわざ千円、二千円というお金を払って本体を買い、さらに同額程度の現像代をかけて、数日待ってから写真を受け取る。この手間に見合うだけの価値が、単なる見た目の質感以外にあるのではないかと、私は首をかしげてしまいました。
効率を何よりも重視する今の時代に、あえて逆行するような行動ですよね。そこには、デジタルネイティブ世代だからこそ感じる、ある種の「渇き」のようなものが隠れているのかもしれない。そんな風に考え始めたのが、この疑問にのめり込んだきっかけでした。
不自由さが生み出す一枚の重み
一つ、面白いなと思った仮説があります。それは、制限があるからこそ大切にできるという構造的な理由です。キャンプをする理由として語られる「不便さを楽しむ」のと似ているでしょうか。
スマホで写真を撮る時、私たちは無意識のうちに連写をしています。とりあえず何十枚か撮っておいて、後で一番いいものを選べばいい。この便利さは素晴らしい反面、一枚に対する集中力をどうしても薄れさせてしまいます。対して、写ルンですはたったの27枚です。指でフィルムを巻き上げるあの重厚な感触を味わうたびに、残りの枚数が減っていきます。
この、あと少ししかないという緊張感が、シャッターを押す瞬間を特別な儀式に変えているのではないでしょうか。一発勝負だからこそ、その場の空気や光を必死に感じ取ろうとする。そんな、デジタルでは味わえない「今、この瞬間」を切り取っている感覚が、逆に人々を夢中にさせているのかもしれません。
また、現像するまで何が撮れているかわからないというワクワク感も大きな要素でしょう。今の時代、結果はすぐに分かって当たり前です。でも、写ルンですの場合は、旅行から帰ってきて、数日後に写真屋さんに受け取りに行くまで、思い出は封印されたままです。この待っている時間そのものが、思い出を熟成させるスパイスになっているというわけです。そう考えると、不便さというのは必ずしもマイナスではなく、体験を豊かにする要素になり得るのだと気づかされます。
失敗が許される心地よさと手ざわりの復権
もう一つの理由は、デジタル社会の完璧主義に対する、ちょっとした疲れではないかということです。SNSで見かける写真はどれも美しく、完璧に修正され、理想的な角度で切り取られています。それに比べて、フィルムカメラで撮った写真は、指が写り込んでいたり、光が足りなくて真っ暗だったり、ピントがボケボケだったりします。
でも、その失敗がなんだか愛おしい。そんな感覚を今の若者たちは大切にしているように見えます。失敗しても消去できない。その不格好な記録こそが、飾らない自分たちのリアルな日常であると感じているのかもしれません。
私たちは肉体を持った存在であり、画面の中の0と1のデータだけでなく、実際に触れられるもの、重みのあるもの、五感を刺激するものを本能的に求めているのではないでしょうか。
この視点を借りれば、写ルンですのブームは単なるファッションではなく、身体的な実感を取り戻そうとする、ある種の本能的な反応のようにも思えてきます。あのプラスチックの感触や、シャッターを切った時のカチッという音、そして現像された写真の紙の質感。それらすべてが、デジタルに囲まれた生活に心地よい違和感を与えてくれるのでしょう。
結論を出さずに今の自分なりの答えを置いておく
ここまで色々と考えてきましたが、正解は一つではないのでしょう。ある人にとってはファッションの一部であり、ある人にとっては大切な思い出を刻むための真剣な道具であり、またある人にとっては友達との会話を弾ませるための遊び道具なのかもしれません。
私が今、この現象について感じているのは、私たちは便利になりすぎたことで、プロセスを楽しむ余白を少しずつ失っていたのではないか、ということです。結果がすぐに出ることは素晴らしいけれど、結果が出るまでの道のりや、そこでの試行錯誤、思い通りにいかないもどかしさ。そういったノイズのような部分にこそ、人生の味わいが詰まっている。
写ルンですを手にする若者たちは、もしかしたら無意識のうちに、その失われかけたノイズを買い戻しているのかもしれません。効率という物差しだけでは測れない価値が、あの緑色の小さな箱には詰まっているような気がします。
皆さんは、最近いつ、アナログな機械に触れましたか。たまにはスマホを置いて、現像するまで秘密にしておきたい風景を、不器用なカメラで切り取ってみるのも悪くないかもしれません。


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