「争いたい」という欲求

画面の向こう側に広がる戦場

今日もスマートフォンの画面を指でなぞっていると、どこかで誰かが誰かと激しく言い合っている場面に出くわしました。全く知らない人たちが、面識もない相手に対して、驚くほど強い言葉を投げかけている。そんな光景が、もはや日常の景色の一部になっています。

単なる意見の相違を超えて、相手を叩き潰したいというほどの激しさを感じることもあります。言葉のナイフで相手を切りつけ、再起不能にするまで攻撃を止めない。そんな様子を見ていると、ふとした瞬間に、私たちはもしかして、心のどこかで暴力を求めているのではないか、という考えが頭をよぎります。

現代の私たちは、とても文明的で穏やかな生活を送っています。道で肩がぶつかっても謝り合いますし、列には行儀よく並びます。でも、スマートフォンの画面という安全な盾を手にした瞬間、その奥底に眠っていた荒々しい何かが目を覚ましているようです。それは一体どこからやってくるのでしょうか。

ふと、自分の胸に手を当ててみます。流れてくる誰かの失言や、自分とは違う意見を目にしたとき、どこかで、よしきた、と言わんばかりに反論の言葉を探している自分がいないでしょうか。あるいは、相手の間違いを正してやりたい、という強い衝動に駆られることはないでしょうか。私はあります。日々(まてまて…)と自制を効かせつつ、SNSを楽しんでいます。

私たちはなぜ、こんなにもSNSの上で誰かと争いたい、と思ってしまうのでしょう。平和に過ごしたいと願っているはずなのに、指先は無意識に、火種を探しているような気さえしてきます。

私たちは本来、争いを避ける平和な生き物だという建前

世間ではよく、人間は本来平和を好む生き物であり、教育や社会的なルールによって暴力性を抑え込んでいると言われます。スポーツや映画、格闘技の観戦などが、そうしたエネルギーを発散するためのガス抜きの役割を果たしているという考え方もありますね。

特に日本のような社会では、和を以て貴しとなすという言葉があるように、争いを避けることが美徳とされています。だからこそ、SNSで誰かが誰かを罵倒しているのを見ると、なんて野蛮なんだろう、と眉をひそめるのが一般的な反応しょう。

でも、その一方で、炎上している投稿をわざわざ見に行って、野次馬の一人として加わってしまう私たちの心理は、単なる好奇心だけで片付けられるものなのでしょうか。

一般的に語られる、ストレスと匿名性

よく言われるのは、現代人が抱えているストレスの多さです。仕事や家事、人間関係…日々の生活で溜まったモヤモヤを吐き出す場所として、手軽なSNSが選ばれている。という見方です。匿名という仮面を被れば、普段は言えないようなトゲのある言葉も、するりと口から出てしまう。これはとても納得感のある説明です。

また、インターネット特有の、自分と同じ意見ばかりが目に入る仕組みも、争いを加速させていると言われます。自分の考えが正しいという確信が強まりすぎて、そこから外れた意見が、まるで悪であるかのように感じられてしまう。正義感という名の着火剤が、SNSという場所に充満しているようなイメージでしょうか。

確かにこれらは大きな理由だと思います。でも、それだけで全てを説明できるのか、とも思うのです。もっと深い、私たちの生き物としての仕組みや、社会の構造が隠れているのではないか。そんな気がしてなりません。

正義という甘くて危険なご褒美

一歩引いて考えてみると、誰かを攻撃しているとき、私たちの脳内では何かが起きているのかもしれません。実は、誰かの間違いを指摘したり、悪を裁いたりすることは、脳にとって非常に快感なのだという話を聞いたことがあります。

自分が正しい側に立っているという感覚は、甘いデザートを食べているときや、褒められたときと同じような、一種の報酬として機能してしまう。そうなると、私たちは無意識のうちに、その快感、つまり、正義の鉄槌を下す気持ちよさを求めて、争いの火種を探し回ってしまうことになります。

これは、個人の性格が悪いという話ではなく、人間という生き物がもともと持っている、集団を守るための防衛本能が、SNSという特殊な環境で空回りしている姿なのかもしれません。
かつては村の秩序を守るために必要だった厳しさが、今では顔も見えない遠くの誰かに向かって、過剰に発揮されてしまっている。そんな構造的なミスマッチを感じるのです。

暴力を飼い慣らし、自分と向き合うために

もちろん、本能だから仕方がない、と開き直るつもりはありません。でも、自分の中には暴力を楽しんでしまうような、暗くて鋭い部分が確かにある。そう認めてしまうところから、新しい付き合い方が始まるのではないかと思うのです。

私は、SNSで誰かに対して強い怒りを感じたとき、これは正義感なのか、それともただの攻撃の快楽なのか、と一旦スマートフォンの画面を伏せて考えるようにしています。私たちは、猫が動くものに反応してしまうように、誰かの失態や攻撃的な言葉に反射的に反応してしまいます。でも、その反射を、深呼吸一つ分だけ遅らせることはできるはずです。

SNSという便利な道具が、私たちの本能を暴走させる装置ではなく、より良いつながりを作る場所になるようにしたいものです。
今のところ私は、自分の内側にいる小さな獣をしっかりと鎖につないでおくような気持ちで、画面に向き合っています。みなさんは、自分の指先に宿る熱を、どうやって静めていますか。

どう向き合えばいいのか

これからも争いたいという欲求は、きっと自分の中に残り続けるでしょう。そういう気がしています。自分が大切にしたい価値観があるからこそ、裏返しとして現れる感情なのかもしれません。

だから、争いそのものをゼロにするのは難しいけれど、今、自分は正義の快感に酔っていないか、と時々自分に問いかける時間を持つことはできそうです。画面の向こうにいるのは、自分と同じように今日をご飯を食べて、誰かに大切にされている一人の人間です。そうしたことを意識的に思い出すようにしています。

SNSという広大な沼で、私たちは上手な泳ぎ方を学んでいる最中です。時には波に揉まれて誰かとぶつかることもあるけれど、少しずつ穏やかに眺める時間を増やしていけたらと思います。

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