
どん底
仕事で取り返しのつかないミスをしたわけではないけれど、なんとなく自分だけが取り残されているような、重たい気持ちを抱えてしまうことがあります。 昨日までは気にならなかった知人の何気ない一言が、胸に刺さって抜けない。 将来への不安を考え始めると出口が見えなくなってしまう。
そんな時に私たちの視線は自然と下へ下へ、地面のほうに向いてしまうものです。 靴の先や、アスファルトのひび割れ、誰かが落としたコンビニのレシートとかとか。 世界が灰色に見えるというのは比喩ではなく、本当に彩度が落ちたような感覚に陥ることもあります。
先日も、そんな風にどん底の気分でトボトボと歩いていました。 頭の中は、あの時こう言えばよかったとか、どうして自分はいつもこうなんだろうといった後悔まみれです。 そんなとき街路樹の根元にある、小さな植え込みが目に飛び込んできました。

そこには名前も知らないような小さくて黄色い花が咲いていました。 それは道路脇の植え込み、排気ガスや騒音の中に存在していました。 そのときそれまで頭を占拠していた悩みが、ほんの少しだけ脇に追いやられたような気がしました。
問題が解決したわけでも、明日から人生がバラ色になる確信を得たわけでもありません。 ただ綺麗だなという単純な感想が、なんとなく気持ちを晴れやかにしてくれた不思議な体験でした。
よく言われる「気晴らし」の限界
落ち込んでいる時、周囲からはよく、もっと広い世界を見なよとか、美味しいものでも食べて忘れなよといったアドバイスをもらいます。 確かにそれは正論ですし、人の優しさは身に沁みます。 ポジティブ思考が大切だという啓発本も溢れていますし、感謝の習慣が幸福度を上げるといった話も耳にタコができるほど聞かされます。
でも本当に深く悩んでいる最中には、そうした前向きな言葉が、かえって重荷になることもあるものです。 前を向かなきゃいけないと分かっているけれど、その筋力すら残っていない。 そんな時に、いきなり高い山に登ったり、豪華なディナーに行ったりするのは、いささかハードルが高すぎる気がしてなりません。
世の中の正解とされる考え方は、得てして結論が早すぎると感じることがあります。 心が疲れている時に、無理やり意識を切り替えようとしても、反動で余計に疲れてしまうこともあります。
そんな私たちの日常において、植え込みの花のような意識して探さなくても身近に見つかるくらいの小さな綺麗さは、一体どんな意味を持っているのでしょうか。 どうしてあんなに悩んでいたはずなのにちょっとしたものを見つけただけで、少しだけ楽になることがあるのでしょう。 それは単なる気休めなのか、それとも私たちの脳や体に何らかの反応が起きているのか。 少し気になって、調べてみることにしました。
植物が脳に与える影響
調べてみると、自然の風景が人間に与える影響については、意外なほど多くの研究がなされていました。 例えば、環境心理学の分野では、自然の要素に触れることがストレスを軽減させるというデータがいくつも示されています。
有名な話では、病室の窓から緑が見える患者の方が、壁しか見えない患者よりも回復が早かったという研究結果もあるそうです。 これは、私たちの脳が、整然とした人工物よりも、不規則で複雑な自然の造形を眺める時に、リラックス状態を示す波形を出すからだと言われています。
さらに興味深いのは、注意回復理論という考え方です。 私たちは日常生活の中で、仕事やスマホの画面など、特定の対象に強い注意を向け続けています。 これは意図的な注意と呼ばれ、非常に多くのエネルギーを消費します。 脳が疲れ切ってしまうと、感情のコントロールが効かなくなり、些細なことで落ち込みやすくなるのだそうです。
一方で、風に揺れる花や、木漏れ日のような、ぼんやりと眺めていられる自然の刺激は、非意図的な注意を引き出します。 これによって、使い古された意図的な注意のスイッチがオフになり、脳が休息モードに入れるという仕組みです。
また、植物の色や形が持つ視覚的な情報も、私たちの心理に作用しているようです。 緑色には心拍数を安定させる効果があると言われますが、花の鮮やかな色彩もまた、脳内の報酬系を刺激し、わずかながらドーパミンを放出させる可能性があるという説もあります。
つまり私が植え込みの花を見て、綺麗だなと感じたのは、単なる感傷というよりは、 酷使されていた私の脳が、花の不規則な揺れや色彩に触れることで冷却モードに切り替わったのかもしれません。
私たちの視野が狭くなる仕組み
それにしてもなぜ私たちは、余裕がある時には気づくはずの道端の花を、悩んでいる時には完全に見落としてしまうのでしょうか。 そこには、認知のトンネル現象と呼ばれるような視野の狭窄が関係しているようです。
強い不安やストレスを感じると、脳は生存に必要な情報だけに集中しようとします。 太古の昔であれば、目の前の敵から逃げるために、余計な景色を見ていては生き残れなかったからです。 現代における敵は、上司の小言や将来の家計、SNSの通知といった形を変えたストレスです。 それらに集中しすぎるあまり、私たちの意識はスマホの画面の中や、自分の頭の中の独り言だけに閉じ込められてしまいます。
その結果、物理的な視界もまた、足元しか見えなくなったり、周囲のディテールを認識できなくなったりします。 視界が狭まると、心もさらに閉鎖的になるという悪循環が生まれます。 私が偶然に見つけた植え込みの花は外側から刺激をくれたのかもしれません。きっかけは、必ずしも壮大な大自然である必要はなく、コンクリートの隙間に咲く花で十分だったのです。
正解のない日々の美しさ
植物は、私たちの都合に関係なく成長し、枯れ、また芽吹きます。 その淡々とした様子が、効率や成果を求められる現代人の心に別の時間の流れを教えてくれます。
また人間には、他の生命体とのつながりを求める本能的な欲求があるという説もあります。 都会に住んでいても、私たちが無意識に観葉植物を置いたりするのは、遺伝子に刻まれた記憶のせいかもしれません。 道端の植え込みを見て心が動くのは、特別なことではなく、生物としての自然な反応だと思うと気が楽になります。
結局のところ、花の綺麗さに気づいたからといって、抱えていた悩みが魔法のように消えるわけではありません。 明日になればまた、同じような不安に襲われるかもしれないし、仕事のミスが帳消しになるわけでもありません。 ですが少なくとも、世界が自分の悩みだけで埋め尽くされているわけではないことを思い出せます。 私が見落としていただけで、そこにはずっと、静かに咲いている命があった。 その事実に気づけたこと自体が、ひとつの小さな救いなのだと思います。
人生には、どうしても解決できない問題や、正解の出ない問いがたくさんあります。 そんな時、無理に答えを出そうとして頭を抱えるのではなく、ただ足元にある色彩に目を向けてみるのもアリです。 逃げではありません。もし皆さんもどうしようもなく塞がる夜があったら、少しだけ視線の角度を変えてみてください。


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