
なぜ私たちは「賢く見られたい」と願うのか
ふとした瞬間に、自分を実力以上に良く見せようとしている自分に気づいて、少し疲れてしまうことがあります。
例えば、どこかのタイミングで知らない専門用語が出てきたとき、つい知ったかぶりをして小さく頷いてしまったり。あるいは、SNSで少し難しい社会問題が話題になっているとき、意見をどこからか借りてきて、自分の言葉のように語ってみたり。
物知りであることや、論理的であること、そして何より有能であることは、現代社会においてとても強力な武器のように思えます。人から尊敬され、頼りにされ、スマートに問題を解決していく姿。それは確かに格好いいものです。
でも、最近になって、その逆の戦略、つまり、あえてバカだと思われておくことの方が、実は人生をイージーモードにするのではないか、という気がしてきたのです。
世の中に溢れる「デキる人」への憧れ
世間一般を見渡してみれば、そこら中により賢く、より生産的にというメッセージが溢れています。
効率的な学習法、論理的な思考術、一瞬で相手を説得するプレゼン技術。これらを身につけることが成功への近道だと誰もが信じて疑いません。学校でも、テストの点数が高い子が褒められ、難しい質問にスラスラ答えられ、プレゼンテーションで観衆を唸らせる子が優秀だとされてきました。
バカだと思われることは、多くの人にとって恐怖に近い感情かもしれません。侮られたくない、無視されたくない、損をしたくない。そんな心理から、私たちは必死に自分の鎧を分厚くし、知性のメッキを塗り重ねていきます。
賢いという評価は、社会的な信用を得るための通行証のようなものです。それを持っているだけで、色々な扉が開くように感じられます。だからこそ、みんな必死でその証を手に入れようとするのでしょう。
「有能である」という看板の重荷
しかし、賢い人だという看板を掲げて生きることは、本当にいいことばかりなのでしょうか。
一度、あの人はデキる人だという認識が周囲に定着してしまうと、そこには見えない「期待」という名の重圧が生まれます。
ミスをすれば「あんなに賢い人がなぜ?」と余計に落胆されます。わからないことがあっても、プライドが邪魔をして聞きづらくなります。周りからは常に完璧な正解を求められ、期待に応え続けなければならないという、終わりのないマラソンを走らされているような気分になるかもしれません。
しかも、賢そうに見える人には、周囲が警戒心を抱きがちです。論破されるのではないか、下に見られているのではないか。そんな壁が、人と人との間にいつの間にか築かれてしまうこともあります。
有能さは時に自分自身の自由を奪う重荷になってしまいます。そう考えると、スマートであることのコストは案外高いのかもしれません。
ナメられているときの圧倒的な身軽さ
一方で、もし最初から、あの人はちょっと抜けているよね、とか、あまり難しく考えないタイプだよね、と思われていたらどうでしょうか。
ハードルが低すぎて半ば地面に埋まっているような状態ですから、少しでもまともなことを言えば、「お、意外と考えてるんだな」と評価が爆上がりします。ちょっとした失敗をしても、あいつだから仕方ない、と笑って許してもらえることもあります。これは一種の生存戦略として、かなり強力ではないかと思うのです。
また、バカだと思われていると、誰からも警戒されません。敵を作りにくいのです。人は自分より優れていると感じる相手には防御姿勢をとりますが、自分より下、あるいは無害だと感じた相手には、良く言えば自然と心を開きます。
懐に飛び込むのが上手い人というのは、この、見せてもいい隙をしっかり見せる技術が卓越している気がします。完璧でないこと、あるいは完璧でないように振る舞うことが、人間関係を円滑にする役割を果たしてくれるのです。
知らないふりをすることで見える景色
さらに、バカだと思われている人、あるいはあえて無知を装える人には、良質な情報が集まってくるという構造的なメリットもあります。
賢そうな人の前では、みんな自分の知識を誇示しようとしたり、言葉を選んだりします。でも、よくわかっていない人に対しては、誰もが丁寧に、噛み砕いて教えてくれます。しかも、教える側は優越感を感じて気分が良くなるので、ついつい裏話や本音までポロッと話してしまう。WIN-WINです。
教えてもらうという立場は、実は情報の最前線にいることと同じです。知らないふりをして相手の話を素直に聞いているだけで、勝手に世界が広がっていく。これは自分で情報の入り口を閉ざしてしまうより、ずっと賢い選択だと言えないでしょうか。
もちろん、本当に何も考えないということではありません。中身はしっかりと磨きつつ、外側には柔らかい、隙のある部分を出しておく。そのギャップこそが、本当の意味での大人の知性なのかもしれません。
結局のところどうありたいか
もちろん、何でもかんでもバカだと思われればいいという極端な話ではありません。仕事でプロフェッショナルなスキルを求められる場面でわざと手を抜くのは、ただの無責任になってしまいます。
大切なのは、賢くあろうとするあまり、自分を窮屈な箱に閉じ込めてしまわないことではないかと思うのです。たまにはわからないと言ってみる。 自分の弱さや、カッコ悪い部分を笑い話にしてみる。 周囲の期待を裏切ってでものんびり過ごす時間を大切に。
そんなふうに、たまには鎧を脱ぎ捨てて「よくわからないけれど楽しそうな人」でいる時間を持つことは、きっと精神的にもに潤いを与えてくれます。



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