表現の範囲に変化を感じるこの頃
ふとテレビやネットのニュースを見ているとき、あるいは昔好きだったアニメの配信を久しぶりに見たとき、あれ、こんなところでボカシが入ってたっけ、とか、この表現って今はテレビじゃ流せないのかな、なんて感じる瞬間はありませんか。
たとえばワンピースのサンジ。いつも紙巻のタバコを吸っている渋い男ですが、海外版では棒付きのキャンディに置き換えられています。

たとえば、世界中で愛されているあのドラゴンボール。私たちの世代にとっては、純粋にワクワクする冒険と、友情と、熱いバトルの物語でした。でも、今の視点や、あるいは海外の特定の基準で見ると、殴り合いのシーンが多すぎて暴力的だという意見が出ることもあるそうです。子どもが真似したらどうするんだ、という心配ですね。
他にも、ニュースで他国の国旗が傷つけられる映像にモザイクがかかっていたり、大人のエンタメコンテンツの修正基準がどんどん厳しくなっていたり。なんとなく、世の中の表現に対する視線が、昔に比べてずいぶんと厳しきなった気がします。
私自身、過激な表現を擁護したいわけではありません。ただ、普通に暮らしている一生活者として、なんだか少しずつ、いろんなものが「見えない場所」に片付けられていくような、ちょっとした異変を感じるのも正直なところです。みなさんはどうでしょうか。同じように、あれ?なんか最近厳しいな、と感じた経験はありませんか。
守るためのルールという建前と、私たちの本音
こうした表現の制限、いわゆる表現規制と呼ばれるものについて、世間ではよく二つの意見が対立しています。
一方では、子どもたちの健全な育成のため、あるいは誰かが傷ついたり不快な思いをしたりしないために、ある程度の網をかけるのは当然だという考え方があります。ネットがこれだけ普及した現代、クリック一つでどんな過激な映像にもアクセスできてしまう時代ですから、ガードレールが必要だという理屈はとてもよく分かります。
その一方で、表現の自由を守るべきだ、クリエイターの自由な発想を奪うな、という反対意見も根強くあります。一歩下がって規制を受け入れてしまうと、次から次へと制限が増えていって、最終的には教科書のように四角四面で、誰も傷つかないけれど誰の心も動かさない、退屈な作品ばかりになってしまうのではないか、という危惧ですね。あるいは最終的には国家やその他大きな権力によるコンテンツの検閲につながる恐れがあるという意見です。
どちらの言い分も、なるほど一理あるなと思ってしまいます。だからこそ、この問題はいつも平行線をたどるし、ネットのコメント欄も荒れがちになります。でも、そもそもどうして今、これほどまでにこの話題が私たちの身近で、かつ切実なものとして語られるようになったのでしょうか。もう少し、その背景にある事実を覗いてみたいと思います。
世界の広さとメディアの現在地
少し視野を広げてみると、表現に対する基準というのは、私たちが思っている以上に国や時代、そしてメディアの形態によってバラバラなようです。
よく言われるのが、日本と海外の基準の違いです。日本のアニメが海外で放送される際、登場人物がタバコを吸っているシーンがキャンディに描き替えられたり、露出の多い衣装に上着が描き足されたりする事例は、ファンにとっては有名な話かもしれません。国旗の扱いについても、国によっては国家の尊厳に直結する非常にデリケートな問題として、法律で厳しく罰せられるところもあります。
また調査データによると、日本のテレビ視聴者の間で「最近のテレビ番組は自主規制が多すぎてつまらなくなった」と感じている人が一定数いる一方で、「不快な表現を避けるために、より厳格な基準を設けるべきだ」と考える人の割合も、特に若い世代や子育て世代を中心に決して少なくないという結果が出ています。
さらに、私たちが日々お世話になっている動画配信サービスやSNSのプラットフォーム。その多くはアメリカなどの巨大IT企業が運営しています。彼らは世界共通の利用規約を持っているため、日本の感覚ではセーフと思われる表現でも、グローバルな基準に照らし合わせて一発で削除されたり、アカウントが停止されたりします。
つまり、私たちが日常で感じる「厳しくなったな」という感覚は、単に誰かが意地悪をして規制しているのではなく、メディアが世界と繋がったことによる基準のすり合わせや、社会の受け止め方の変化という、かなり具体的な事実に基づいているようです。
なぜ「見えなくする」必要があるか
では、なぜ社会はこれほどまでに、表現をコントロールしようとするのでしょうか。いくつか、構造的な理由を考えてみました。
まず一つ目は、情報の届くスピードと範囲が変わりすぎたことです。昔なら、映画館に行くか、特定の雑誌を買わなければ見られなかった表現が、今はスマートフォンの画面を見ていると勝手に飛び込んできます。見るつもりがなかった人の目にも触れてしまうため、送り手側としては、あらかじめ一番繊細な人に合わせてフィルターをかけておく方が、炎上という大火事を防ぐための安全策になるわけです。
二つ目は、商業的なリスク管理という側面です。アニメや漫画は、今や日本国内だけでなく、世界中で巨大なビジネスになっています。投資をする企業や、配信をするプラットフォームからすれば、どこかの国で不買運動が起きたり、配信停止になったりするリスクは絶対に避けたいはずです。そうなると、表現の尖った部分をあらかじめ丸めておく方が、ビジネスとしては正解になってしまいます。
そして三つ目は、私たちの「配慮」の裏返しという側面です。現代社会は、ハラスメントや差別の問題に対して、昔よりもずっと敏感になりました。それは間違いなく、社会がより良く、優しくなった証拠でもあります。ただ、誰一人として不快にさせないように配慮を突き詰めていくと、結果として表現の幅がどんどん狭まっていくというジレンマが生まれてしまうのかもしれません。
正解のない教室で、私たちができること
ここまで、表現規制にまつわるあれこれを、一生活者の目線でとりとめもなく考えてきました。
結局のところ、ドラゴンボールが暴力漫画なのか、あるいは素晴らしい冒険活劇なのかという問いに、たったひとつの正しい答えは用意できるはずもありません。見る人の立場、育った環境、そして時代によって、その評価はいくらでも変わります。モザイクの濃さや、国旗の扱いについても同様です。
ただ、ここで大雑把に「規制はすべて悪だ」とか、逆に「不快なものはすべて排除せよ」と断定してしまうのはもったいない気がします。
もしかしたら大切なのは、自分が何かを不快だと思ったときに、それをすぐに社会から消し去ろうとするのではなく、なぜ自分はこれが嫌なのだろう、そしてなぜ他の人はこれを面白いと思うのだろう、と思いを巡らせてみることかもしれません。社会のルールが変化していくのは止められませんが、その変化の波に飲み込まれて自分の思考まで平坦にしてしまわないように、ちょっとした余白を心の中に持っておきたいものです。みなさんは、最近のこの空気について、どのように感じているでしょうか。



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