

毎月の給与明細を眺めては、ため息をつくのが習慣になっていないでしょうか。健康保険料に厚生年金、それに住民税。引かれている金額の合計を見ると、これだけあればあのお店で欲しかった鞄が買えたのに、とか、美味しいお寿司を何回食べられただろうか、なんていう邪念が次々と湧いてきます。
私たちはどうしても、自分が支払っている側であり、誰かがそれを享受している側だという構図で物事を考えがちです。特にネットのニュースやSNSを見ていると、現役世代が損をしていて、高齢者が得をしているという対立構造がよく目に入ります。私自身、自分は一生懸命働いて社会を支える側だ、という自負のようなものが心のどこかにありました。でも、ふと立ち止まって考えてみると、本当にそうなのか?と不思議な気持ちになるのです。
社会保障の恩恵をいつから受けているか
私たちが社会保障という言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、おそらく年金や医療費の補助ではないでしょうか。自分はまだ元気だし、病院にも滅多に行かないから、今は払うばかりで何も受け取っていない。そう感じるのは、ある意味でとても自然なことです。
しかし、もう少し視野を広げて、一人の人間が生まれてから大人になるまでの過程を辿ってみると、景色が少し違って見えてきます。例えば、日本で子供が一人生まれるとき、出産育児一時金としてまとまった金額が支給されます。そして義務教育の期間、私たちは教科書を無償で受け取り、建物の維持費や先生たちの給与も公費で賄われています。
ある統計的な推計によると、子供一人を公立の小中高校に通わせるだけで、国や自治体からは一千万円を優る公的な資金が投入されているといいます。大学に行けばさらにその額は膨らむかもしれません。つまり、私たちが社会に出て初めての給料をもらい、そこから保険料を引かれるよりもずっと前から、私たちは社会の貯金をかなりの勢いで食い潰して育ってきた負債者である、という見方もできてしまうわけです。
生涯を通じた損得の計算は可能か
世の中には、生涯でどれだけの税金や保険料を払い、どれだけのサービスを受け取るのかを計算しようとする試みがあります。受益と負担の均衡(受益者負担の原則)という考え方です。これに基づいたいくつかの研究データを見てみると、意外な事実が浮かび上がります。
現在の日本のような高度な福祉国家において、生涯を通じて支払う額よりも受け取る額が少なくなる、つまり純粋な払い損になる人は、実はそれほど多くないという説があります。私たちが日常的に利用している道路や橋、上下水道の整備、ゴミの収集、警察や消防といった公共サービス。これらをすべて個人の負担で賄おうとすれば、とても今の生活水準を維持することはできません。
私たちは、自分が支払った保険料が誰かの医療費に使われることには敏感ですが、自分が子供の頃に使った教室の机や、今歩いている歩道の整備費が誰かの保険料や税金から出ていたことについては、忘れがちです。そう考えると、社会保障というのは銀行の預金のようなものではなく、前の世代から受け取ったバトンを次の世代に渡していく、長い長いリレーのような構造をしているのかもしれません。
負債から始まるという考え方のヒント
この、人間は生まれながらにして社会に対して大きな借りを負っているという考え方に触れたとき、私はデヴィッド・グレーバーという人類学者の、負債論という本を思い出しました。彼は、お金というものが生まれるよりもずっと前から、人間関係の本質は貸し借りにあったと説いています。
私たちは誰かに何かをしてもらい、それをいつか別の人に返すことで社会を維持してきた。そう考えると、今私たちが払っている社会保険料は、かつて自分を育ててくれた社会への、遅れてきた返済なのかもしれません。あるいは、まだ見ぬ誰かが将来困らないための、壮大な前払いとも言えます。
もちろん、今のシステムが完璧だと言うつもりはありません。不公平感を感じる部分は多々ありますし、もっと効率的なやり方があるはずだと憤ることもあります。でも、自分だけが損をしているという被害者意識に囚われすぎると、私たちが既に受け取ってしまった膨大なギフトの存在に気づけなくなってしまうような気がするのです。
目に見えないインフラの存在
私たちは、病気になったり老いたりしたときに初めて社会保障の存在を強く意識します。でも、実は何事もない平穏な日常こそが、社会保障という巨大なシステムによって守られている時間なのかもしれません。
例えば、海外のいくつかの国では、救急車を呼ぶだけで数万円から十万円単位の費用がかかることがあります。日本に住んでいる私たちは、万が一のときに救急車が無料で駆けつけてくれることを当然だと思っていますが、その一台の車両を維持し、隊員の方々が待機しているコストは、紛れもなく誰かの負担によって支えられています。
また、失業したときの給付や、再就職のための支援制度があることで、私たちは最悪の事態を恐れずに新しい挑戦をしたり、今の仕事を続けたりすることができます。こうした安心感という目に見えないインフラは、私たちが経済活動を行う上での土台になっています。私たちは、自分が直接お金を受け取っていないときでも、社会保障というセーフティネットの上で、のびのびと綱渡りを楽しんでいる状態に近いのかもしれません。
正解のないリレーを続けていくこと
社会保障の議論は、いつも数字のぶつかり合いになりがちです。少子高齢化がどうとか、財政赤字がどうとか、難しい言葉が飛び交います。それらは非常に重要なことですが、それ以上に大切なのは、私たちがどのような社会に住みたいかという、もっと素朴な感覚ではないでしょうか。
私たちは、誰もが最初は誰かの助けを必要とする赤子として生まれ、最後は誰かの助けを必要とする老人としてこの世を去ります。その中間にいるほんの数十年の間だけ、私たちは支える側に回ることができます。そう考えると、社会保障という仕組みは、人間の生命のサイクルそのものをシステム化したもののように見えてきます。
私たちが今感じている不満や疑問は、決して間違ったものではありません。制度をより良くしようという声は常に必要です。ただ、自分もまたその大きな循環の一部であり、知らず知らずのうちに社会を食い潰し、そして支えてきた存在なのだという視点を持つことで、よりよい議論ができるようになるのかもしれません。


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