殴られても、殴っちゃダメ

子供の頃に言われたことは

幼い頃、友達と喧嘩をして泣きながら帰宅したとき、親や先生から言われた言葉を覚えているでしょうか。 「やられたらやり返せ!」という勇ましい教えを授けられた人もいるかもしれませんが、多くの場合は、殴られても殴り返しちゃダメだよというものだった気がします。

当時の私は、この理屈がどうしても納得できませんでした。 先に手を出したのは向こうなのに。なぜ耐えている自分だけが損をしなければならないのか。 やり返さないと相手は調子に乗るだけではないか。 そんな風に、幼心に不条理を感じていたものです。

大人になった今でも、この問いは形を変えて私たちの前に現れます。 職場で理不尽な攻撃を受けたときや、SNSで見ず知らずの人からトゲのある言葉を投げつけられたとき、私たちは心の中で拳を握りしめています。 それでも社会は、あるいは道徳は、やり返さないことが正解であると静かにプレッシャーをかけてきます。

この「殴られても殴っちゃダメ」というルールには、一体どのような背景があるのでしょうか。 ただの綺麗事なのか、それとも私たちが平和に暮らすための高度な知恵なのか、少し丁寧に考えてみたいと思います。

世の中のスタンダードは厳しい

一般的に、なぜやり返してはいけないと言われるのかを整理してみると、そこにはいくつかの段階があるようです。 まず最も分かりやすいのは、暴力の連鎖を防ぐという考え方です。 一回やり返せば相手は二回やり返し、それがエスカレートして取り返しのつかない事態になるだろうという理屈です。 これは歴史の教科書でもよく見る、争いの火種を消すための最もスタンダードな理由と言えるでしょう。

次に、道徳的な優位性の問題があります。 やり返した瞬間に、あなたも相手と同じ土俵に立って暴漢になってしまうことになるという説得です。 どんなに正当な理由があっても、手を出した瞬間に「加害者」という属性が付与されてしまい、正当性を失ってしまう。 つまり、自分を守るためにやったことが、結果的に自分の首を絞めることになるという、少し損得勘定に近い教えです。こちらはより納得できる論だなと思います。

さらに、法的な観点も無視できません。 現代社会では自力救済、つまり自分の権利を自分の力で取り戻すことは基本的に禁止されています。 どれほど理不尽な目に遭っても、警察や裁判所という公的な機関を通さずに相手に報復をすれば、それは暴行罪や傷害罪に問われる可能性があるのです。

ルールを守っている側が損をするような奇妙な感覚ですが、これが社会のシステムとして機能している現実があります。

感情とデータのあいだで揺れる私たち

では、実際にやり返すことで事態は好転するのでしょうか。 心理学や社会学の知見をいくつか紐解いてみると、興味深い事実が見えてきます。

復讐心や報復行動に関する研究によると、相手にやり返した直後は一時的に脳内の報酬系が刺激され、スカッとした快感を得られることが分かっているそうです。 しかし、その快感は驚くほど短命です。 むしろ、やり返した後に相手の様子を観察し続けなければならなくなったり、相手からの再度の報復を恐れたりすることで、長期的なストレスレベルはやり返さなかった場合よりも高くなる傾向があるという報告もあります。

また、集団の中での評価についても面白いデータがあります。 ある実験では、理不尽な攻撃に対して沈黙を守る人よりも、適切に、かつ冷静に抗議を行う人の方が周囲からの信頼を得やすいという結果が出たそうです。

ここで重要なのは、殴り返したり、暴言を浴びせたりすることと「抗議すること」はまったくの別物として扱われている点です。 感情に任せて拳を振るうのではなく、相手の非を論理的に指摘したり、周囲に助けを求めたりする行動のほうが、長期的には自分の身を守る確率を高めるというわけです。

さらに、進化心理学的な視点で見ると、人間にはもともと、やられたらやり返すというプログラムが備わっているという説もあります。 狩猟採集時代には、大人しくしていると資源を奪われ続けて生存確率が下がるため、報復する姿勢を見せることが生存戦略として有効だったからです。

私たちが殴り返したいと強く思うのは、生存本能としての名残なのかもしれません。 そう考えると、殴られても殴っちゃダメという教えは、本能という荒ぶる馬を理性の手綱で制御しようとする、人類の果てしない挑戦のようにも見えてきます。

なぜ殴り返すことが解決にならないのか

なぜ現代社会はこれほどまでに個人の報復を制限しようとするのでしょうか。 そこには構造的な理由がいくつか考えられます。

ひとつは情報の非対称性です。 当事者同士の間では、どちらが先に手を出したかは明白かもしれませんが、第三者から見れば、取っ組み合いをしている二人はどちらも乱暴な人に見えてしまいます。 誰が先に始めたかという原因の追及には膨大なコストがかかり、しかも多くの場合、双方の言い分は食い違います。 社会全体をスムーズに回すためには、理由の如何を問わず、手を出した者は等しくペナルティを受ける(両成敗)というシンプルなルールにしておく方が効率的なのかもしれません。

もうひとつは、報復の倍化です。 人間は自分が受けたダメージを過大に評価し、相手に与えたダメージを過小に評価する傾向があると言われています。 本人は軽くやり返したつもりでも、相手にとっては予想外に重い一撃になることがあります。 この感覚のズレが、出口のない報復のループを生み出してしまうのです。 かつて多くの社会で、目には目を、歯には歯をという法典が作られたのは、「やり返しすぎ」を抑制するためだったという説があるほどです。

また、私たちは一人で生きているわけではなく、無数の関係性の中で生きています。 誰かにやり返す姿は、それを見ている他の人々、例えば子供や同僚、友人に、この人は怒ったら暴力で解決する人だというメッセージを送ることになります。 その瞬間的な勝利と引き換えに、積み上げてきた信頼という目に見えない資産を大きく目減りさせている可能性があるということです。

暫定的な正解だから、拳は引っ込めて

結局のところ、殴られても殴っちゃダメという言葉は、私たちに聖人君子になれと強要しているわけではないような気がします。 むしろ、その一瞬の感情に従うことが、結果的に自分をより深く傷つけてしまうよという、先人たちの切実なアドバイスなのかもしれません。

もちろん、これをすべての状況に当てはめるのは酷な話です。 自分の命や尊厳が脅かされているとき、ただ耐え忍ぶことが常に正しいとは限りません。 適切な自己防衛や、法的な手段を用いた対抗、あるいはその場から逃げ出すといった選択肢は、常に開かれているべきです。 ただ、その手段として、相手と同じ武器を手に取ることだけは、最後に残しておくべき劇薬のようなものなのでしょう。

私の考えに大きなヒントを与えてくれたのは、しっぺ返し戦略に関する研究です。 この研究は、協力と裏切りのゲームにおいて、どのような戦略が最も利益をもたらすかを分析したものですが、そこで示された、「基本的には協力するが、相手が裏切ったときだけ一度だけやり返す」というシンプルなルールが、最も長期的には成功するという結果は、私たちの日常の人間関係を考える上で非常に示唆に富んでいます。

正解は一つではないのでしょう。 それでも、次に誰かに殴られたとき、私は反射的に拳を握り直す前に、深呼吸をひとつして、この構造的な理由を思い出してから手を打とうと思います。 それは相手のためではなく、他でもない自分自身の平穏を守るためです。

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