
どんどん世界が「きれい」になっていく
最近、ふとした瞬間に、世界が少しずつ磨かれて、きれいになりすぎているような気がすることがあります。テレビの向こう側でも、スマートフォンの画面の中でも、誰かを不快にするかもしれない表現や、少し刺激の強い描写が、いつの間にか消えていたり、ぼかしが入っていたりします。渋いキャラクターが吸っているタバコはペロペロキャンディーになり、「ドラえもん」の冒頭にも「暴力」の注意書きがあったりします。ジャイアンがのび太を殴ったりするからなのかな…
もちろん、それを見て嫌な気持ちになる人がいるのは分かりますし、配慮は大切だなとも思います。でも、ふと不思議に思うのです。みんなにとって不快なものを全部取り除いていった先に待っているのは、一体どんな世界なんだろうと。それはとても「清潔」な場所かもしれませんが、同時に、少し危険な場所になってしまわないでしょうか。
表現の自由という言葉は、なんだか学校の教科書に出てくる難しい用語みたいに聞こえます。でも実は、私たちが日々どんなものに触れ、どんなことを感じ、どんなことを考えられるかという、とても身近で大切な話なんですよね。今日は、この自由というものについて、少し肩の力を抜いて考えてみたいと思います。
見えない壁
一般的に、表現を制限すべきだという意見の裏には、公共の福祉という正論があります。子供に悪影響があるとか、公序良俗に反するとか、そういった理由はどれももっともらしく聞こえます。確かに、過激なエロティックな描写や、目を背けたくなるようなグロテスクな表現が、街中の誰でも見える場所に溢れているのは、健全とは言えないかもしれません。
でも、本当にそうか?と一歩引いて考えてみると、少し違った景色が見えてきます。公共の福祉という言葉はとても便利ですが、裏を返せば、「多数派の不快感」という曖昧な基準で、自由を封じ込める力になってしまう危うさも秘めている気がするのです。
もし、誰かが嫌だと言っただけで何かが消されていくのなら、最後に残るのは、毒にも薬にもならない、「漂白された」味気ないものだけになってしまいます。確かに怪我はしませんが、そこで新しい刺激や、心の底から揺さぶられるような体験に出会うことはできないのかもしれません。
自由の本当の価値はどこに?
ここで、ある一冊の本のことを思い出します。ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」という有名な本があるのですが、そこには、どんなに突飛に見える意見や、社会の常識に反するような表現であっても、それを封じることは人類全体の損失になる、という趣旨のことが書かれています。私はこの考え方に、とても勇気づけられるような気がしました。
たとえそれが、今の自分にとって不快だったり、理解できなかったりする表現であってもそれを認めることが、巡り巡って自分自身の自由を守ることにつながる。やや過激に見える表現も、人間の本能や、普段は隠しているドロドロとした感情の一部を映し出しているだけかもしれません。
それを、ただ「汚いもの」として不快感を理由に世界から消し去ってしまうのは、人間という存在の一部をなかったことにしてしまうようで、いささか不自然な気もします。むしろ、そうした表現があるからこそ、私たちは自分の内面を見つめ直したり、世界の多様さを知ったりできるのではないでしょうか。
消すことよりも「選ぶこと」の難しさ
最近は、見たくないものを遮断するための技術も進化しています。SNSのミュート機能や、年齢制限を設ける仕組みなどは、その良い例でしょう。私は、表現をまるごと社会から消し去ってしまうよりも、こうした「ゾーニング」という考え方をもっと工夫していくほうが、ずっと建設的ではないかと考えています。
見たくない人は見ない。でも、表現したい人は表現できるし、それを見たい人は見ることができる。この単純な住み分けが、今の世の中では少しずつ難しくなっているのかもしれません。インターネットというすべてが繋がった世界では、どうしても予期せぬ出会いが起きてしまいますからね。
でも、そこで安易に禁止のルールを増やすのは、少し怖いことだとも思います。一度、これはダメだという前例ができてしまうと、その範囲はどんどん広がっていくのが世の常です。最初は極端なエログロだけを規制するつもりだったのが、そのうち政治的な批判も禁止になり、最後にはちょっとした皮肉すら許されない世の中になってしまう。そんな、滑り台を転がり落ちるような未来を想像すると、多少の不快感には目を瞑ってでも、自由の側に立っていたい気持ちになります。
完璧にきれいな世界よりも
表現の自由は、きっと私たちが思っているよりもずっとワガママで、グロテスクで汚くて、それでいてとても大切なものなのでしょう。それを守るということは、誰かの不快感を許容するということであり、同時に、自分自身の不完全さを許容することでもあるのかもしれません。
今のところ、私はこう考えています。世界を完璧にきれいにしようとするのではなく、少しくらい散らかっていても、誰もが自分の好きな色で絵を描き続けられる場所を守り続けること。それこそが本当に豊かな社会なんじゃないかなと考えます。正解は分かりませんが、少なくとも誰かの表現に対して、安易に「不快だから消えてしまえ」とは思わない自分でありたいものです。


コメント