「学歴」にまつわる話に感じた違和感と知的好奇心の話

学歴の議論に感じる違和感の正体

最近、SNSや職場の雑談でよく耳にするのが、「学歴なんて今の時代もう関係ないよね」という言葉です。一方で、「やっぱり有名な大学を出ていないと苦労するよ」というような意見も根強く残っていて、この二つの意見はいつも平行線をたどっているような気がします。

私自身、特段のエリート街道を歩んできたわけではありません。日々、スーパーの特売を気にしたり、小さなミスをして落ち込んだりする、どこにでもいる普通の人間です。そんな私の目から見ると、この学歴が必要か不要かという議論は、なんだか何かが抜け落ちているような感覚になることがあります。

もちろん、入社試験で足切りに使われるとか、人脈が広がるとか、そういう実利的な面での学歴の効能はあるのでしょう。でも、本当に私たちが人生のどこかで直面する、この人は信頼できるなとか、この人の話は面白いなと感じるポイントは、卒業証書の銘柄とは別の場所にあるのではないか。そんな素朴な疑問が、最近ずっと頭の片隅にありました。

一般的に言われている、学「歴」の価値

世の中でよく言われるのは、学歴は努力の証明書であるという考え方です。10代の多感な時期に、遊びたい盛りの欲求を抑えて机に向かったという事実は、その人の忍耐力や計画性を保証してくれる。だから企業も、その実績を評価して採用するのだ、という理屈です。これはまぁ筋が通っているように見えます。

一方で、反対派の人たちはこう言います。今は変化の激しい時代なのだから、学校で習った知識なんてすぐに古くなる。それよりも、現場で培った知恵やコミュニケーション能力、あるいは特定のスキルの方がよっぽど武器になると。大学で四年間過ごすよりも、早く社会に出て揉まれた方が、人間として成長できるはずだ。これもまた、一つの真実を含んでいるように感じます。

どちらの言い分も、うーんなるほどなと思わせる説得力があります。でも、どちらの立場も、学歴を一種のカードや道具のように捉えている点では共通している気がします。持っていると有利になる装備品なのか、それとも重荷になるだけの古い遺物なのか。そんな風に、損得勘定の文脈だけで語られすぎています。私はここから一歩引いて考えてみたくなったのです。

学歴という結果よりも、学という「態度」の差

そこで私がふと思ったのは、学歴という過去の記録よりも、現在進行形の学、つまり学ぶという態度そのものが、人生の質を分けているのではないかということです。

例えば、何か新しいニュースに触れたとき、それをすぐに鵜呑みにして感情的に反応する人と、一旦立ち止まって、これって本当なのかなと調べる人がいますよね。両者には雲泥万里のような隔たりがあります。あるいは、仕事でトラブルが起きたとき、運が悪かったと嘆く人と、なぜこれが起きたのかという構造を考えて分析しようとする人がいます。

この差は、どこの大学を出たかという過去の履歴とは、実はあまり関係がないように見えます。でも、その根底にある、知ることに対するハングリーさや、物事を理性的にながめようとする態度は、「広い意味での」学問を通じて養われるもののような気がするのです。

もし、学歴が単なる受験競争の勝ち負けの結果でしかないのなら、卒業した瞬間にその価値は目減りしていく一方でしょう。しかし、もし大学などの学びの場で、物事の考え方の「型」を身につけていたのだとしたら、それは一生モノの財産になります。そして、その型は、学校に行かなかったとしても、日々の生活の中で自分なりに磨き続けることができるはずです。

因果と相関を区別できないという、密かな恐怖

特に最近、私が重要だなと感じているのは、因果関係と相関関係を区別して考える姿勢です。これは専門的な統計学の話というより、もっと日常的な理性の使い方の話です。

例えば、「朝にバナナを食べたら宝くじに当たった」という人がいたとして、それを聞いた時に、バナナには金運を上げる成分があるんだと思い込むのか、それは単なる偶然が重なっただけだと判断するのか。極端な例ですが、私たちの日常はこういう判断の連続です。

怒りっぽい上司を見て、今日は天気が悪いから機嫌が悪いんだと決めつける前に、もしかしたら朝の会議の内容が原因かもしれない、あるいは全く別の個人的な事情があるのかもしれない。そうやって複数の可能性を考え、安易な結論に飛びつかない。これこそが、私が思う「学がある人」の振る舞いです。そうありたいなと個人的に思っている目標でもあります。

こうした理性的な態度は、一見すると冷たく、理屈っぽく見えるかもしれません。でも、感情の波に飲み込まれず、フラットに現実を見つめようとする態度は、自分自身を守るための盾にもなります。デマや極端な意見に振り回されず、自分の頭で納得のいく答えを探し続けること。そのための基礎体力が、本来の意味での「学」なのではないでしょうか。

私なりの結論は…

結局のところ、私が今たどり着いているのは、学び続けるハングリーさは手放したくないな、というところです。

それは、難しい数式を解けるようになるとか、歴史の年号を暗記するとかいうこととはまったく別です。なぜ目の前の人は怒っているのか、なぜこの商品は売れているのか、なぜ自分は今幸せだと感じているのか。そんな日常の小さな謎に対して、面倒くさがらずに光を当ててみることです。

学歴というレッテルに安住して思考を止めてしまうのも、学歴がないことを理由に学ぶことを諦めてしまうのも、どちらももったいないことだと思います。知ることを楽しみ、理性的であることを尊び、物事のつながりを丁寧に紐解いていく姿勢を持っている人は、たとえ肩書きがなくても、とても知的で魅力的に見えますよね。

私はこれからも、専門家のような立派なことは言えませんが、日常のちょっとした疑問を大切にしながら、ゆっくりと自分の学を深めていければいいなと思っています。明日の朝、バナナを食べたからといって宝くじが当たるとは思わないけれど、バナナの皮がやたらと滑る理由について少し調べてみるのもいいですね。ハングリーな生活を続けていきたいものです。


コメント

タイトルとURLをコピーしました