
いつから私たちは隠れなくて良くなったのか
最近、通勤電車に乗っていると、スーツ姿の大人たちが真剣な表情でスマートフォンの画面を見つめている光景をよく目にします。パズルゲームに熱中していたり、アニメ動画を視聴していたり、あるいはキャラクターのイラストを熱心に眺めていたり。一昔前、それこそ平成の初期頃であれば、そういった光景はどこか「後ろめたいもの」として扱われていたような記憶があります。
ふとした瞬間に、なぜあんなにオタクという言葉にはトゲがあったんだろう、と不思議に思うことがあります。今ではすっかり市民権を得て、好きなものを堂々と好きと言える空気がありますが、ここに至るまでには結構な断絶があったはずです。いつの間にか当たり前になったこの風景の裏側に、どんな変化があったのかを少し立ち止まって考えてみたくなりました。
日陰を歩いていたあの頃のイメージ
かつて、オタクという言葉には、コミュニケーションが苦手で、暗い部屋に閉じこもって、社会のルールから少し外れた場所にいる人、という非常に強い偏見が張り付いていました。特に1980年代の終わりから1990年代にかけては、ある種の社会的な事件の影響もあって、アニメや漫画を深く愛好すること自体が、何か危険を想起させるもの、あるいは幼稚なものとして切り捨てられていた時期があったように思います。
世間一般では、その後、「新世紀エヴァンゲリオン」のヒットや、インターネットの普及によって情報が共有されやすくなったことが、受け入れられるきっかけだったと言われることが多いです。確かに、それまで点在していた愛好家たちがネットワークで繋がり、自分たちは一人ではないと確認できたことは大きかったのでしょう。でも、それだけでこれほど劇的に社会の空気が変わるものだろうか、という小さな疑問も残ります。
経済の力が扉をこじ開けたのか
一歩引いて考えてみると、結局のところ、オタクという存在が持つ経済的なパワーを無視できなくなった、という身も蓋もない現実が見えてきます。愛好家たちが好きなものに対して惜しみなくお金を使い、それが巨大な市場を作り上げたことで、企業や国が、これは無視できないどころか、むしろ応援すべき対象だ、と態度を翻した側面があるのかもしれません。
いわゆるクールジャパンという言葉が叫ばれるようになった頃から、かつての偏見は少しずつ、日本の誇るべき文化という華やかな看板にすり替えられていきました。でも、ここで私が少し引っかかるのは、それは文化そのものが認められたというより、その背後にある財布が認められただけではないか、という点です。もしそうだとすれば、私たちが手に入れた自由は、どこか脆い足場の上に立っているような気もしてきます。
世代が入れ替わり、境界線が薄らいでいった
もう一つの大きな要因として考えられるのは、時間の経過による世代の交代です。かつてアニメやゲームを楽しんでいた子供たちが、そのまま大人になって社会の中枢を担うようになりました。親がアニメを見ている家庭で育てば、子供にとってそれは特別なことではなく、日常の一部になります。
また、以前は、「オタク」と「一般人」という間に明確な線引きがあったように思いますが、最近はその境界線が非常に曖昧になっています。ファッションの一部としてアニメキャラクターのTシャツを着る人がいたり、普段はスポーツを嗜む人が深夜アニメに涙したり。特定のジャンルに深く没頭すること自体が、現代社会における一つの生存戦略というか、心の平穏を保つための手段として一般化したのかもしれません。
表現の自由と、私たちが見ているもの
一方で、表現の自由という言葉についても考えさせられます。かつて不当に抑圧されていたからこそ、今はどんな表現も守られるべきだという主張が強まっています。しかし、社会に受け入れられたということは、それだけ多くの人の目に触れ、様々な価値観とぶつかり合う機会が増えたということでもあります。自由に楽しめるようになった今だからこそ、その自由をどう扱うかという、新しい段階の責任のようなものが問われている気がしてなりません。
答えはまだまだ
こうして振り返ってみると、オタク文化が社会に受け入れられたのは、単一の理由ではなく、経済や世代の交代、そして何より愛好家たちの変わらぬ熱量が、長い時間をかけて岩を穿つように社会の壁を削っていった結果なのだろう、という気がしています。
ただ、今のこのオープンな空気が、本当にゴールなのかは分かりません。あまりに一般的になりすぎて、かつてあったような、自分たちだけの秘密基地のような濃密な連帯感は薄れてしまったのかもしれない、と少し寂しく思う気持ちも正直あります。それでも、好きなものを隠さずに笑い合える今の社会の方が、きっと多くの人にとって生きやすい場所であることは確かでしょう。
今のところ、私は、この変化をひとまずの幸福として受け入れつつ、でも、かつてそこにあった熱いトゲのようなものも忘れずにいたいな、と考えています。皆さんは、あの頃の冷たい視線と、今のこの温かい、あるいは無関心な受容について、どんな風に感じているでしょうか。



コメント