
ため息をついてしまう理由
みなさん、スマートフォンの画面を指先でスクロールしながら、なんとなく眺めているだけの時間が、一日の中にどれくらいあるでしょうか。特に、一日の終わり、あとは眠るだけというリラックスタイムのベッドの中は、不思議とあの小さな光の板に吸い寄せられがちです。
そこで目に入ってくるのは、実におしゃれで眩しい世界です。友人が載せている、どこかの隠れ家のようなカフェの洗練されたパンケーキ。あるいは、見知らぬ誰かが投稿した、ホテルの高層階からの夜景や、最新のハイブランドのバッグ。さらには、仕事で大成功を収めて仲間たちと満面の笑みを浮かべている集合写真など、画面の向こうは常に祝福と充実感で満ち溢れています。
それらを眺めた後、ふと視線を自分の手元に戻してみると、そこにあるのは、毛玉のついたスウェットを着て、薄暗い部屋の中、スマートフォンの黒い画面に映るなんとも冴えない自分の姿です。
別に、その人たちに意地悪をされたわけでも、自分の生活が困窮しているわけでもありません。ただ普通に、それなりに平穏な一日を終えようとしていたはずです。それなのに、あの四角い画面の向こう側と自分との間に、埋めようのない深い溝があるような気がしてきて、なんだか急に胸のあたりがズンと重くなることはないでしょうか。
そして、こんなものをわざわざ見にきて、勝手に落ち込んでいる自分は一体何をやっているんだろうと、時間の無駄遣いに自己嫌悪を重ねてしまう。そんな風に、誰に頼まれたわけでもないのに一人で勝手に傷ついている夜を、みなさんも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
「ネットの付き合いはほどほどに…」というアドバイスは
このような、いわゆるSNS疲れや、他人のキラキラした日常を見て落ち込んでしまう現象について、世間一般では、実によく出来た正論のアドバイスが溢れています。
「スマホを見る時間を減らしましょう」とか、「他人は他人、自分は自分という強い心を持ちましょう」…といった内容です。あるいは、ネットに投稿されているものなんて人生のほんの一部分を切り取っただけの張り子の虎なのだから、真に受ける方が馬鹿げている、といった少し冷ややかな意見もよく耳にします。
確かに、言っていることは正しいのだと思います。画面から目を離して、お気に入りの温かいハーブティーでも飲んで早く寝てしまえば、余計なストレスを感じずに済むのは間違いありませんからね。
しかし、この、個人の自制心や心構えだけで片付けるアドバイスには、どこか現実味のなさを感じてしまいます。それができたら苦労はしないよ!というわけで、分かっていてもつい指がアプリのアイコンをタップしてしまうからこそ、多くの人が現代の病のように悩んでいるはずです。
では私たちはなぜ、自分を落ち込ませる毒だと薄々気づいていながら、他人の充実した暮らしの記録をのぞき見ることを止められないのでしょうか。そこには、私たちの意志の弱さとは別の、人間の心やテクノロジーが仕掛けた、もう少し根深い仕組みがあるのかもしれません。
脳の癖と画面の裏側の仕掛けが教えてくれること
ここで、人間が他人の様子を気にするときの心の動きや、スマートフォンのアプリが作られている仕組みについて、いくつかの心理学的なお話や具体的な事実に目を向けてみましょう。
そもそも人間には、周囲の人間と自分を無意識のうちに比較して、自分の立ち位置を確認しようとする強い本能があるそうです。これは大昔、集団から見捨てられたら生きていけなかった時代に、周りとうまくやれているかをチェックするために必須の機能でした。
つまり、他人の状況を気にしてしまうのは、私たちの心が未熟だからではなく、生き物としてサバイバルするために脳に最初から組み込まれた、極めて正常なプログラムの働きによるものなのだと言えます。
しかし、現代のSNSという環境は、この太古からの脳の癖に対して、あまりにも過酷な条件を突きつけています。というのも画面の向こうに並んでいるキラキラした日常は、世界中の何十万人、何千万人という人たちの一番輝いている瞬間だけを集めた、いわば濃縮還元のハイライト映像だからです。
一人の人間が、ある日は美味しいものを食べ、ある日は旅行に行き、ある日は仕事で褒められる。そんな、誰にでもある「たまのハッピー」のようなものを、私たちは何万人分も連続で、しかも解像度も高いそのままの状態で浴び続けることになります。これでは、まるで自分の周りの全員が、年中無休で完璧な人生を送っているかのような錯覚を脳が起こしてしまうのも、無理のない話です。
さらに、アプリを開発しているIT企業たちのデータや戦略を覗いてみると、彼らは私たちが画面を長く見続けてくれるほど利益が上がる仕組みの中で戦っています。そのため、どうすれば人間の指を止め、次の投稿へとスクロールさせ続けられるか、行動経済学や脳科学の知恵を総動員して画面を設計しています。
スロットマシンのレバーを引くときのように、指を下に引っ張って画面を更新すると、次にどんな面白いものや刺激的なものが飛び出すか分からないという、あのギャンブルに似た快感を脳に与える構造になっているそうです。なんとも皮肉な話です。
私たちは、自分の意志で覗いているつもりでいて、実は世界最高峰の天才たちが作った、絶対に引き返せない蟻地獄のような仕組みに、まんまとはめられている可能性があるわけです。
なぜ私たちは画面の前で動けなくなってしまうのか
他人の日常を気にする本能と、画面の裏側の高度な心理戦という事実を踏まえると、私たちが他人のキラキラに落ち込み、時間を無駄にしてしまうのには、いくつかの構造的な理由が考えられます。
ひとつは、現代社会における、自分の幸せの基準の見えにくさです。昔であれば、ご近所さんや同じ会社の同僚など、比較する相手は自分の手の届く範囲の限られた人たちだけでした。生活の水準もなんとなく似通っていたため、それほど極端な格差を感じることは少なかったかもしれません。しかし、ネットによって世界中のあらゆる富豪や、特別な才能を持つ人、驚くほど容姿の整った人たちの暮らしが、自分の部屋のベッドの中にまで土足で踏み込んでくるようになりました。しかも動画や写真という密度の高い状態で。比較の対象が地球規模にまで広がってしまったことで、私たちは自分の平凡な幸せに対して、これで本当にいいのだろうかと、常に揺さぶりをかけられ続けることになります。
もうひとつは、誰もが編集者になれる時代のすれ違いです。画面の向こうで輝いているあの人も、実は投稿の裏では仕事の人間関係に胃を痛めていたり、部屋が散らかっていて足の踏み場がなかったり、深夜に一人で寂しさに震えていたりする、普通の人間であるはずです。でも、わざわざそんなみっともない姿をネットに晒す人はあまりいませんよね。誰もが自分の人生の、一番見栄えの良い部分だけを切り取って綺麗にフィルターをかけ、雑誌の記事のように編集して世の中に送り出しています。私たちは、相手が丁寧に作り上げた作品としての日常と、自分のリアルで生々しい日常を比較してしまっているわけですから、最初から勝負になるはずがありません。
さらに、孤独を埋めようとする行為が、かえって孤独を深めてしまうという皮肉なループもありそうです。なんとなく寂しいから誰かと繋がっている感覚が欲しくてアプリを開くのに、そこで見せつけられる他人の楽しそうな繋がりによって、自分の部屋の静けさがより一層強調されてしまう。お腹が空いているときに、他人が豪華なディナーを食べている動画をじっと見せられているようなもので、見れば見るほど、自分の心の空腹感や寂しさが強まっていくという、なんとも不器用な空回りが起きているのかもしれません。
ほどほどの諦めと上手な付き合い方
こうして色々な側面を眺めてみると、他人のキラキラした日常を見て落ち込む時間の無駄さというのは、私たちが反省すべき個人的なダメさ加減というよりは、人間の古い脳と、現代の最新テクノロジーがまともに衝突してしまった結果生まれる、ごく自然な現代のバグのようなものなのかもしれません。
あんなものは無駄だから今すぐアプリを消せ!などと極端に走る必要は全くありません。ネットの繋がりによって、救われたり、新しい世界を知ったり、ちょっとしたお留守番の時間を楽しく過ごせたりするのも紛れもない事実だからです。
ただ、夜に画面を見ていて胸がチクリとしたときは、自分の脳が大昔の集団サバイバルモードが発動していることを意識してみてください。所詮は画面の裏のAIが私を眠らせないよう必死にパンケーキを差し出してきているだけです。
少し引いた目線でその状況を面白がってみてはいかがでしょうか。そして、画面の向こうの眩しい住人たちも、きっとスマホを置いた後には、お腹を壊してトイレにこもったり、明日会社に行くのが嫌だなとため息をついたりしているに違いないと、ほどほどの親しみを持って勝手に想像してみるのもアリです。
そんな風に、手のひらの上の世界を現実だと思わずに、どこか遠くの街のファンタジー映画でも観るような、諦めと適度な距離感を持って付き合っていくのが、この情報の溢れる世界を泳いでいくために大切なのではないでしょうか。
今夜あたりは、スマートフォンの画面を下に向けて、毛玉のついたスウェットの心地よさを存分に味わいながら、そのままゆっくりと目を閉じてみるのも良い選択肢です。




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