「自分が間違っている」と認めるのは、なぜ苦しいのか?幼稚園児にできる謝罪が 大人には難しい理由

なぜあんなに喉元で言葉が詰まるのか

日常のふとした瞬間に、自分でも驚くほど意固地になってしまうことがあります。例えば、家族との些細な言い争いで、途中で自分の勘違いだと気づいたとき。あるいは仕事で、自分の確認不足が原因だと薄々わかっているのに、つい別の言い訳を探してしまうとき。心の中では、あ、これ私が間違っているなとはっきり分かっているのです。それなのに、その事実を口に出して、「ごめんなさい、私が間違っていました」と認めるのは、まるで熱い鉄の塊を飲み込むかのような苦しさを伴います。

不思議なのは、幼稚園児たちが砂場なんかで、あ、ごめんね、(→いいよ、)とあっさり謝っている姿を見かけるときです。さっきまでおもちゃの取り合いで泣いていたはずなのに、数秒後には自分の非を認めて、和解しています。それに対して私たち大人はどうでしょう。社会的な立場や経験を積んで、もっと賢くなったはずなのに、なぜかこの素直さだけは、年齢を重ねるごとに失われていくような気がします。

一度意地を張り始めると、後に引けなくなるあの感覚。あれはいったい、私たちの心の中で何が起きているからなのでしょうか。今日は、専門家でも何でもない一生活者の視点で、この喉に詰まった、ごめんなさい、の正体について、少し丁寧に考えてみたいと思います。


世間でよく聞くプライドの正体

一般的に、大人が間違いを認められない理由は、プライドが高いからだ、と片付けられることが多いようです。確かにそれは一理あります。大人になればなるほど、周囲からの信頼を守らなければならないとか、恥をかきたくないという防衛本能が働きます。特に日本社会のような、空気を読むことが重視される環境では、一度ついた「しっかりした人」というイメージを崩すことに恐怖を感じるのかもしれません。

また、間違いを認めることは、その勝負に負けることだ、という勝ち負けの論理で考えている人も多そうです。謝ったらマウントを取られるとか、これまでの発言の正当性がすべて失われてしまう、といった、ある種の生存戦略のような感覚です。だからこそ、間違いを指摘されると、あたかも自分の人格そのものを攻撃されたかのように感じて、反射的に反撃に出てしまう。こうして、本来はただの事実確認だったはずの話が、泥沼の感情論へと発展していくわけです。


非を認めたがらない構造

しかし、本当にそれだけが理由なのでしょうか。私たちは、プライドが大事だと言いつつも、一方で、素直に謝れる人を素敵だなと感じる感性も持っています。潔く非を認める人の方が、むしろ信頼できる。そう頭では分かっているのに、いざ自分の番になると、体が拒絶反応を起こすのです。これは、性格というよりは、もっと根源的な、人間という生き物の構造に理由があるのではないかと思えてきます。

そこで、いくつか自分なりに可能性を掘り下げてみました。まず一つ考えられるのは、脳の仕組みによるエラーです。私たちは、自分の持っている信念や考え方が否定されると、身体的な痛みを感じる時と同じような脳の部位が反応する、という話を聞いたことがあります。

つまり、間違いを認めるという行為は、脳にとって、実際に叩かれたり怪我をしたりするのと同じくらい、不快で危険なシグナルとして処理されているのかもしれません。もしそうなら、幼稚園児が素直なのは、まだ自分を守るための、脳の防衛システムが固まっていないからではないか、という仮説が立ちます。


自分の正しさが「自分そのもの」になっていないか

もう一つの大きな理由は、自己同一性と意見の混同にあるような気がします。大人は、自分がこれまでに積み上げてきた知識や経験に、強い自信を持っています。それが強すぎるあまり、私の意見は「私自身」である、という感覚に陥っているのではないでしょうか。

自分の意見が否定されることは、自分の存在価値を否定されることと同じ。そう無意識に思い込んでしまうと、間違いを認めることは、自分の一部を消去するような恐怖を伴います。一方で、小さな子供たちは、まだ自分という人間を定義する固定観念が少ないわけです。だから、おもちゃの使い方が違っていたとしても、それを直すことで、自分という人間が壊れるとは感じないのかもしれません。

この、自分と意見を切り離すという作業が、大人になるほど難しくなるところに、大人の生きづらさのヒントがあるような気がします。


考えるヒントになった知恵の断片

この問題についてあれこれ調べているときに、私の考えに大きな影響を与えたものがあります。例えば、社会心理学の古典的な知見を分かりやすく解説した、間違いを認められない人間心理を解き明かした有名な書籍があります。キャロル・タヴリスとエリオット・アロンソンという心理学者が書いたものですが、そこでは、認知的不協和という言葉がキーワードになっています。

私たちは、「自分は賢くて正しい人間だ」、というセルフイメージを持っています。それなのに、自分が間違ったことをしてしまった、という事実に直面すると、その二つの矛盾に耐えられなくなります。

すると、脳は自分を守るために、事実を歪めたり、相手が悪いと思い込んだりして、なんとか自分を正当化しようとする。この、自動的に行われる言い訳のメカニズムこそが、私たちの喉を締め付けている正体なのだと知ったとき、少しだけ心が軽くなりました。

また、名作として知られる、「12人の怒れる男」という古い映画を思い返すと、さらに深いヒントが見えてきます。ある密室で陪審員たちが議論する物語ですが、最初は全員一致で有罪だと思っていたのに、一人の男の疑問から少しずつ風向きが変わっていきます。その過程で、頑なに意見を変えない人々が登場しますが、彼らが最後に、自分が間違っていたかもしれない、と認める瞬間の葛藤は、まさに人間の本質を映し出しています。彼らが最後に突きつけられるのは、事件の真相というよりは、自分自身の偏見や寂しさといった、向き合いたくない内面でした。

これはホントに傑作だと思います

今のところ自分はこう考えている

いろいろと思考を巡らせてきましたが、結局のところ、間違いを認めるのが苦しいのは、私たちが、自分は完璧でありたい、という呪いにかかっているからなのかもしれません。幼稚園児にはまだ、完璧でなければならない、という強迫観念がありません。転んだら痛いし、間違えたら直せばいい。それだけのシンプルな世界に生きています。

対して私たちは、いつの間にか、正解を出し続けることが大人の証明だと思い込んでしまいました。でも、本当の意味で成熟した大人というのは、間違えない人ではなくて、間違えたときに、失礼しました、と言って修正できる余裕のある人なのではないでしょうか。

今の私がたどり着いた結論は、間違いを認める苦しさは、自分の心がそれだけ一生懸命自分を守ろうとしてくれている証拠だと受け止めることです。その上で、いま私の脳が防衛システムを作動させているな、と一歩引いて自分を眺めることで、少しだけ喉の詰まりが取れるような気がします。

皆さんは最近いつ、ごめんなさいを言いましたか。そのとき、心の中ではどんな嵐が吹き荒れていたでしょうか。次に自分の間違いに気づいたとき、私は少しだけ深呼吸をして、かつての砂場の子供たちのように、ごめんね、と軽く言える自分を目指してみたいと思います。

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