
鏡を見て思う、私たちの立ち姿の不思議
ふとした瞬間に、飼っている犬や猫、あるいは公園で見かける鳩を眺めていると、彼らの体のラインの美しさに感心することがあります。背骨が地面と水平に伸びていたり、四本の足がごく自然に地面を捉えていたりする姿は、いかにも機能的で安定感がありますね。歩き方もしなやかです。
それに比べて、私たち人間の姿はどうでしょうか。垂直にすっくと立ち上がり、重たい頭を一番てっぺんに乗せているその姿は、冷静に考えるとかなり独特というか、異様です。
なぜ私たちは、他の多くの哺乳類が選んだ安定した四足歩行を捨てて、あえて不安定な二本足で立つという道を選んだのでしょうか。朝、起きた瞬間に感じる腰の重みや、階段を降りる時にピリッとする膝の違和感を覚えるたびに、この骨組みは本当にこれで正解だったのか?と、素朴な疑問が湧いてきます。

二本足で立つのは当たり前ではない
学校の教科書やテレビの科学番組では、人間が二足歩行を始めた理由として、道具を使うために手が自由になったことや、高い場所にある果実を見つけるため、あるいは遠くの敵をいち早く察知するためといった説明をよく耳にします。
確かに、手が自由になったことで文明が発達したという側面はあるのでしょう。空いた手でスマホを操作したり、コーヒーカップを運んだりできるのは、二本足で立っているおかげです。
世間一般では、この変化を進化という言葉で片付けがちです。より高度に、より便利になった結果としての形なのだから、これが完成形であるという暗黙の了解があるような気がします。
でも、本当にそう言い切ってしまっていいのでしょうか。もしこれが究極のデザインなのだとしたら、どうしてこれほどまでに多くの現代人が、肩こりや腰痛といった骨格由来の悩みを抱え続けているのか、不思議に思えてくるのです。
実は無理をしている「骨の積み木」
一歩引いて人間の骨格を眺めてみると、これは洗練された機械というよりは、急ごしらえのリフォームを繰り返した古い家屋のような雰囲気を感じます。
他の哺乳類の場合、背骨はまるで吊り橋のアーチのように機能していて、内臓の重さを効率よく覆うように支えています。ところが人間は、その吊り橋を無理やり垂直に立ててしまいました。
その結果、私たちの背骨は緩やかなS字カーブを描くことで、なんとか頭の重さを分散しようと奮闘しています。重力に対して垂直に骨を積み上げるというのは、ジェンガを高く積み上げるような危うさがあります。見ての通り、安定感はまるでありません。

特に驚くのは足の裏の構造です。片足だけで26個もの骨が組み合わさってドーム状のアーチを作っています。これは、二本足で全体重を支え、かつ歩く時の衝撃を吸収するために進化した精密な仕組みですが、これほど複雑なパーツを狭い面積に詰め込んでいる動物は他に類を見ません。
また、私たちの骨盤は内臓が下にこぼれ落ちないように受け皿のような形をしていますが、この形状が原因で、他の動物に比べて出産が格段に大変になったとも言われています。何かを得るために、どこかで大きな無理を強いている。人間の骨格からは、そんな切実な妥協の跡が見え隠れします。
重力との果てしない戦いの記録
ここで少し視点を変えてみると、人間の骨格は異質というよりも、重力という目に見えない力に対して真っ向から挑み続けている、非常にストイックな構造体なのかもしれません。
例えば、人間の首の骨は細い割に、スイカほどの重さがある頭部を絶妙なバランスで支えています。これは、他の哺乳類が首の筋肉を大きく発達させて頭を吊り下げているのとは対照的です。
私たちは筋肉で力任せに体を支えるのではなく、骨のバランスで最小限のエネルギーを使って立とうとしている節があります。立ち止まっている時、私たちは実はほとんど筋肉を使っていないという説もあります。
私たちは、走るために特化した骨格を持ちながら、今は椅子に座ってばかりです。そのギャップもまた、私たちの骨格をより異質で、かつ脆いものに見せている気がします。
未完成のままの面白さ
こうして考えてくると、人間の骨格が他の哺乳類に比べて変てこなのは、私たちがまだ適応の途中にいるからではないか、という気がしてきます。
完璧な完成品としてこの形になったのではなく、ありあわせの部品をやりくりして、なんとか二本足で立ってみた。その危ういバランスの上に、私たちの知性や文化が乗っかっている。そう思うと、自分の頼りない骨格が、なんだか愛おしく思えてこないでしょうか。
私たちの骨の一部は太古の魚の構造を受け継いでいます。魚のヒレが足になり、それが垂直に立ち上がって今の私がある。その長い長いリレーの果てに、今こうしてキーボードを叩いている自分の異質な手があると思うと、骨の一本一本に歴史が詰まっていることを実感します。


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