奴隷労働はとっても儲かる ~ブラック企業がなくならない理由

どうして無理な働き方が続くんだろう

最近、ニュースやSNSを見ていると、どうしても避けて通れない話題があります。それは、過酷な労働環境、いわゆるブラック企業の問題です。法律が厳しくなり、働き方改革なんて言葉が当たり前になった今の時代でも、無理な働き方を強いられて心身を削る人の話は絶えませんよね。

そこでふと、素朴な疑問が湧いてきました。どうしてこれほど批判され、社会問題になっているのに、そういった仕組みはなくならないのでしょうか。もし本当に非効率で、誰の得にもならないのなら、市場の原理で自然と淘汰されていくはずです。でも現実はそうなっていない。ということは…認めたくないですが、ブラック企業って効率がいいのでしょうか?

もしかして、私たちが感情的に嫌悪しているその裏側で、奴隷的な労働というものは、経営的な視点から見れば驚くほど効率的で、儲かる仕組みになってしまっているのではないか。そんな嫌な予感が頭をよぎったのです。今日は、このモヤモヤとした疑問について、少し考えてみたいと思います。

世の中でよく言われること

一般的に、ブラック企業がなくならない理由として挙げられるのは、経営者の道徳観の欠如や、労働者の権利意識の低さといった話が多い気がします。悪い社長が私腹を肥やすために社員をこき使っているとか、断れない日本人の真面目な気質が利用されているといった説明ですね。

あるいは、人手不足だから仕方ない(?)という意見もよく耳にします。ギリギリの人数で回しているから、一人ひとりの負担が増えてしまうという理屈ですね。これらは確かに一面の真実を突いているように見えます。悪意のある人がいて、それを許容してしまう空気がある。だから問題が続くのだ、という解釈は非常に分かりやすいです。

悪意だけで説明がつくのか?

でも、少しだけ視点を変えてみると、それだけの理由でこれほど根深く残るものだろうかという疑問も出てきます。もし経営者が単に意地悪なだけなら、もっとまともな会社に人が流れて、その会社はすぐに潰れてしまうはずです。それなのに生き残っているということは、そこには感情論を超えた、もっと冷徹な構造があるのではないでしょうか。

例えば、適正な賃金を払い、適切な休日を与えるというホワイトな運営をするには、相応のコストがかかります。一方で、そのコストを極限まで削り、サービス残業を「当たり前」として人権や法律フル無視の運営をすれば、短期的には競合他社よりも圧倒的に安い価格でサービスを提供できるかもしれません。

つまり、真っ当にやろうとする正直者が損をして、ルールを無視する側が利益を得るという、歪んだ競争優位性が生まれてしまっているのではないか。そう考えると、これは個人の性格の問題というより、ゲームのルールそのものに欠陥があるような気がしてくるのです。

利益という魔物と、替えのきく私たち

ここで少し、構造的な理由をいくつか掘り下げてみたいと思います。

まず一つ目に考えられるのは、労働を使い捨ての消耗品として扱うことの、経営上の誘惑です。機械を導入したり、社員を丁寧に教育して長く勤めてもらったりするには、膨大な初期投資と時間が必要です。しかし、特別なスキルを必要としない現場で、常に新しい人を入れ替えながら限界まで働かせ、壊れたら替える、というモデルなら、教育コストをかけずに目先の利益を最大化できてしまいます。

二つ目は、私たち消費者の存在です。より安く、より便利に、という私たちの願いが、巡り巡ってどこかの誰かの過酷な労働を支えてしまっている可能性です。激安の衣料品や、深夜でもすぐに届く荷物、信じられないほど安い外食。うれしいですよね。それらが成立している背景に、誰かの無理が存在しているのだとしたら。私たちは被害者であると同時に、無自覚な加害者という側面も持っているのかもしれません。

三つ目に、人間の心理的な罠もあります。一度その環境に入ってしまうと、正常な判断力が奪われ、ここを辞めたらどこにも行く場所がない、周りに迷惑がかかる、といった思い込みに支配されてしまうというものです。これは、歴史上の奴隷制が暴力だけでなく、精神的な支配によって維持されていたことと、どこか似ているような気がしてなりません。

今、私がぼんやり考えていること

こうして考えてみると、ブラック企業という存在は、社会のバグというよりは、現代の経済システムが内包している、非常に残酷な最適解の一つなのかもしれないという気がしてきました。儲かるからこそ、なくならない。必要とされるからこそ、形を変えて生き延びる。

もちろん、だからといってそれを容認していいわけでは決してありません。ただ、単に悪い奴がいるからだという勧善懲悪の物語で終わらせてしまうと、解決策は見えてこないような気がするのです。

私たちが本当に考えなければならないのは、安さや便利さという甘い果実を手放してでも、誰かの尊厳を守るという選択ができるかどうかではないでしょうか。あるいは、そうした冷徹な効率性を追求させないための、より強固な社会的ブレーキをどう構築するか、ということなのかもしれません。

正解は分かりませんが、少なくとも、目の前の便利さが誰の犠牲の上に成り立っているのかを想像し続けることが大切な気がします。世界は誰かの仕事で出来ていますからね。そこから変化が始まるのではないかと妄想しています。人間は本質的に利己的で、放っておけば互いを搾取し合う存在なのか、それとももっと善意に基づいた社会を作れるのか。気になるところです。

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